ある朝僕は君を吐いた 4





 ――ぎちぎちぎちぎち頭の奥で音がする。

 そのつぶれたトマトは服を着ていた。まるでB級映画のワンシーンだ。飛び散った果肉が気色が悪くて、品がない。

「磯野、早く処理しろ、見苦しい」
「…………」
「磯野!」

 呆然とする側近に怒鳴ると、何かを言いよどむ。はっきりしない物言いは嫌いだが、まぁいい、今の俺は気分がいいのだ。

「いいか、すっかり処理してしまえ。まずは固形物を拾え。欠片ひとつ残さないよう丁寧にだ。次に……そうだな、地面に染み付いた汚れを落とさないとな。何か洗剤でも使えば落ちるだろう」
「瀬人様」
「何だ」
「……その、もう清掃は終わっております」
「何を言っている。まだだ。まだこんなに汚いだろう」

 黄色いテープで周囲から隔絶された一帯を指差した。あぁ俺の立っている地面にあの男の体液が染みているなんて思うだに胸糞悪い。
 野次馬どもは退去し警察もいなくなって、一見するといつもの我が社のエントランスだが、気味が悪いほど静かだ。静寂は嫌だ。あの音が大きくなる。

「瀬人様、とりあえず一度屋敷に戻りましょう。事態が沈静化するまではお休みになられたほうが」

 うるさいやつだ。

「嫌だ。俺は行かない」
「しかし」
「黙れ。……あぁ、あの隅のあたりはモップかタワシでしっかりこすれ、終わったら上からペンキでも使って塗り変えるか? あぁ、いや、いっそタイルごと張り替えようか。何色がいいかな。俺は青か白がいいと思う、クリーンでわかりやすい。赤は駄目だ。汚いしすぐ劣化する。あれは病み衰える色、臓腑の色だ。俺は白がいいと思う、何だ、放せ貴様」
「いけません、瀬人様。帰りましょう。いえ、帰らなくてはなりません」

 被雇用者のくせに生意気な発言を叱責する暇もなく、なかば引きずられるようにして俺は車に乗せられた。



 ――そうだ、俺は見た。あの男の頭蓋が割れて中身が飛び散るさまをすべて、側の茂みにも、コンクリートにもあの男の残骸がこびりついているのを知っている。俺は見た、一時も目をそらさずに、逃げずに最後の最後まで見てやった。情けない姿だった! あれこそ敗者、負け犬の姿だ! 勝った、勝った!! そうだ俺は勝った!
 これが勝者の喜びなのか。震える指先を眺め、何度かグチャグチャで赤いアレを思い出してこみあげた笑いを飲み込んだ。
 そして短い夢を見た。



 気が付くと俺は自室の寝台に寝かされていた。眠くなどないのに。磯野と家政婦長の伊佐坂とが額を付き合わせてひそひそとなにかを囁いている。

「……主治医に鎮静剤を……」
「……報道…………った……か……」
「…………モク……さ……は…………」
「……先方……連…………」

 切々に聞こえる話題の全てが今はどうでもよかった。何を企もうが所詮は羽虫の言うことだ。虫のささやきに意味などない。ふと、上半身を起こしておい、と呼びかける。

「いいことを思いついた」

 羽虫どもはぽかんとした顔をこちらに向ける。舌打ちをしてやるとスイッチが切れた不出来の玩具のような動きで磯野がようやく来る。

「は、ハイ、瀬人様」
「社葬だ」
「……は?」
「社葬。会場は本社がいい。あれの死体をソリッドヴィジョンで作って葬式で投影するんだ。……っふふふははははははは、素晴らしい思い付きだろう、葬式をやるのに肝心の死人の頭がないなんて味気ないからなぁ! ははっ、ひっ、あーっははははは! そうと決まったら早くデータ処理をしなければ! V1エンジンにホロデータを打ち込んで、ああそうだデバッグ班を読んでおけ、モデリングはいらないし服装はテクスチャをいじればどうにでもなる、そう、データの集合体を遠距離に設置したプロジェクタから立体表示する最終テストがまだだったな、データ解析が遅れているんだ。あの人にバレないようにここまで持って来るのは大変だった、今度だってうまく隠してやる。俺にはできる。あの人を出し抜いて、きっと、復讐を……」

 ……ぎちぎち。
 だめだ、黙ったらぎちぎちがうるさいんだ。でも言葉が浮かばなかった。しょうがないから腹の底から沸き上がる笑いの衝動に身を任せた。

「……っははは、ひひ、くは、はは、ははあははは、はははは」

 ひどく慌てたように伊佐坂と磯野が退室する。主である俺にはひとつも断りなしに。どういう了見だとしばし憤慨するが、笑いながら怒るのはなかなか体力がいるようだ。
 ……それにしても困った、笑いが止まらない。
 入れ替わり部屋に入ってきた主治医は俺の笑い声に一瞬立ち止まるが、頭を振るとベッド脇の椅子に腰を下ろす。

「瀬人様、腕を」

 主治医は顔色ひとつ変えずに鞄から注射器を取り出した。

「ああ、はは、ははは。さっきから、っくく、笑いがとまらない、んだ、あっはっは」
「……。……瀬人様、失礼ですが」
「何、だ、ひ、くくっ、ひふふ、ふは」
「あまり顎に力を入れすぎますと、歯茎から出血する恐れが」

 ぴたりと笑いが止まる。腕にわずかな痛み、薬が注射されるのをジッと見つめながら、医者の言葉を反芻する。顎だって?
 試しに口を開いてみた。
 ぎちぎ、ち、ぎ……。音が、止む。
 何だ、何だ、何だ? あんなにうるさかったのに。こんな簡単なことで静かになるなんて。
 注射器が引き抜かれ、混乱とドロリとした重たさが身体を支配する。思わず頭を抱える、主治医はそんな俺の肩を叩いた。

「歯も痛みますし、噛み合わせも悪くなりますよ。さあ、瀬人様、お疲れでしょう。お休みなさいませ」
「つかれて……いる? だれが」
「お休みなさいませ」

 何をたわけたことを、と言いながら俺は文字通り泥のように意識を沈めた。沈めながら、考える。
 なるほど、ぎちぎちは俺の歯ぎしりだったのか。なんだ、なら食い破られるだなんて馬鹿馬鹿しい。もとから俺が出していた音なんじゃないか。そうだ、俺はあの人を越えたんだ。だから俺は俺自身を食い破ったんだ。俺だ。俺。俺は俺として俺のために生きるのだ。他の誰にも因らない俺のために。俺だけのために。
 俺はあまりに素晴らしい未来の来訪に嬉しくなって一度吐いた。このところ毎朝のように吐いているなとどうでもいいことをうっすら考えた。始末は主治医に任せた。倦怠感が指先までを覆い尽くす。
 眠くなどないのに身体は眠りにつきたがり、俺はこの歓喜を誰とも分かち合えないことを悔やみながら闇の底に落ちていった。そうして俺は俺に食われる夢の中で死んだ。勝者だというのにみっともなく嘔吐し続けて吐瀉物にまみれた俺はひどく醜く、俺は噛み千切られながらぼんやりと死んで行った。



 嘔吐!









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 社長爆誕