ある朝僕は君を吐いた 3





 C言語とラテン語とマクロ経済学の教科書を粗方引き千切ったところで、ボーン、と時計が間抜けな音で日を跨いだことを知らせる。じわりと背中にかいた汗でシャツが体に貼り付いて気持ちが悪い。いつからこうしていたのだろう、足元にはたくさんの千切れたページが散らばっている。
 よれた紙を綺麗に床に並べてみるとそれぞれ十ページほど足りなかった。二十八、百十四、百八十九、二百三……規則性は皆無。
 ビッシリと大きな絨毯を埋め尽くす紙屑を見下ろしながら、首を傾げる。足りないページはどこに行ったんだろう。探しに行かなければ。収集して補修して直さなければ。直せば元通りになる。貼り付ければ元通りになる。
 ……やけに首が痒い。かきむしるとわずかな痛みとともにかさぶたが剥がれた。あぁなんだ、こんなもの。痒い痒い痒い。
 ぼたぼたと血がラテン語の教科書の五百三ページに落ちる。汚れた。慌てて立ち上がりぼりぼりと首を掻きながら俺は紙片を踏みつけた。汚れた。これじゃあもとにもどせないじゃないか!
 ――汚い、汚い、汚い!
 何度も何度も、何度も何度も何度も。ぐしゃりと皺が寄る。足の下で関数が動詞が効率的市場仮説が悲鳴を上げる。

 俺は。俺は。俺は。

 小動物が首を絞められたときのようなみっともない俺の呼吸の合間合間に、内側から、ぎちりと何かの音がする。
 うるさくて気が狂いそうなのに、何をしたらその音が止まるのかわからない。頭をかきむしる、べったりと髪に血がついて、その感触にか貧血でかいきなり足がすくんだ。ぐしゃっと紙の山に膝をつくと、ぎちぎちぎちぎち、大挙する音に脳みそから食いちぎられそうだ。

 そのぎちぎちはもうずっとそこに住み着いて離れない。ぎちぎち、おかしくなる、ぎちぎち。ぎちぎちぎちぎち。

 ぎちぎちのせいかなんだか知らないが、俺は最近よく夢を見る。
 目を開くと父と母がいて俺は学生服を着てリビングに立っている。フローリングの床は母の手でよく掃除されていて、父は新聞から顔をあげるとにこりと微笑む。おはようございます、父様。俺は言う。背後から弟がドタバタと駆けて来る。母が朝食をテーブルに並べる。おはようございます、母様。朝日が窓からさしこんで眩しい。俺の席は父の隣、甘えたな弟は母の隣。しかし弟はテレビにかじりついている。注意しようとしてふと気付く、子ども向けのチャンネルはデフォルメされた動物たちがメインのアニメーション、左上に表示された時間は何故か25:32。

 え?

 ……ちぎち。テレビから妙な音がする。
 壁掛け時計は一時半。窓からは朝日。
 ぎちぎちぎち。今度は左、父のほうから。席についた母が弟に言う。ぎちぎちぎちぎち。
 そういえばまだ、今朝は、父の声を聞いていない。
 ……今朝は?
 もっとずっと昔から、聞いていないような気が、する。

「……父様」

 ぎちり。
 隣で父の顔をした何かが、音を立てる。
 俺は悲鳴をあげる。椅子を倒し無様に転びながら、喉がひきつるような悲鳴、ひゅうひゅうと呼気ばかりが漏れて声にならない。

 ぎち、ぎち、ぎち。

 近寄る父を装う偽物に、喘息のような呼吸のままで精一杯に来るな、と叫んだ。やめろやめろ来るんじゃない。倒れた椅子を、父……のような物に投げつける。偽の父の腹が裂けて中から砂のような、ものが……何だ、あれは。
 ざあざあとこぼれるそれはどうやらおが屑のようで、父……ではない物はにこにこと笑ったまま腹を押さえた。叱られる、と俺は反射的に頭を抱えてしなる鞭の音に身を縮こませ――、? 父は鞭など。

ぎちぎちぎち。ぎちっぎちっ。

 振り返ると、背中を向けたままの弟が熱心に見つめているテレビに、鞭を持った義父が笑いながら25時39分の世界からこっちを見ているさまが映っている。
 いや、あれは父か?
 義父とは?
 母は?
 ……違う、違う違う全て偽物だ! 父様は母様は死んでしまった、義父は平面世界の向こう側に!

「モ……クバ、モクバ!」

 すがるような気持ちで俺は弟を呼ぶ。顔を見たい。声を聞きたい。確かなものを手にしたい。
 だけれど、弟の側には寄れない。テレビに映る鞭がしなって俺を引き留める――勉強部屋という名の見世物小屋に。蹲って背中を丸める俺を義父は亀のようだと笑う。何度同じことを言わせるつもりだこんな簡単な問題が解らなくて海馬姓を名乗らせるわけにはいかん所詮は小汚い愚図なのだ野良犬の分際で醜いみすぼらしい捨て子めが威勢がいいのは口だけの無力な物乞い拾ってくれと吠えたのは誰だ惨めで哀れなゴミ同然の無価値な必要のない子どもを拾ってやった恩を返して貰おうかなんだその目はそんなに打たれたいか生意気な犬の癖に、葉巻の臭いが鼻孔を通り抜けていくような錯覚を起こす。
 前後左右からぎちぎちぎちぎちとうるさく追い立てられ、鞭は振り上げられ義父の声が俺を責める。

「モクバ!!」

 このままでは、俺もこいつらと同じ「紛い物」に、なってしまう。駄目だ駄目だ駄目だ、俺はまだ闘わなければならないのに!
 父様も、母様も、義父様も、家も、父様も、家族も、父様も、義父様も、父様も、義父様も、テレビも、義父様も、朝食も、義父様も、義父様も義父様も義父様も、みんなみんなみんなみんな紛い物だ!
 ぎ、ぎ、ぎ、ち、ち、ち。

「消えろ、消えろ、消えろ、消えろ、消えろ、消えろ、消えろ、消えろ、消えろ、消えろ、消えろ、消えろ、消えろ、消えろ、消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ」

 頼むから消えてくれ。
 お願いだから俺を食い破らないでくれ。
 お願いします。
 ごめんなさい。
 もうしません。

 だから、はやく、消えて、くれ。

「兄サマ?どうかしたの?」

 その時果たして弟は振り返り、その幼い声で俺に呼び掛けた。
 瞬間、すべてが、無に帰る。
 不愉快な音が無くなり俺を苦しめる父様や母様や義父の幻影は弟の前では無力だった。それらは煙のように消えていく。

「兄サマ、大丈夫?無理はしないでよ」

 弟が笑う。とても、眩しい。あぁ、お前がそんなふうに笑うのはいつぶりだろう?
 俺はその笑顔を見て何故だかひどく虚しくなって、それで――

 いつも、目が覚めるのだ。



 どうやらあのまま寝入っていたのを運ばれたらしい。自分の……と言えどまともに安らいだことはないベッドから身を起こすとサイドテーブルに新品のC言語とラテン語とマクロ経済学の教科書が重ねられていた。首には包帯が巻かれ、手や頭にべったりと付着していたはずの血は痕跡ひとつ残っていない。
 ……どこからどこまでが夢なのか、わからなくなる。千切ったはずのページはどこに消えたのだろう。そもそも昨夜は何をしていたのだろう。父や母は、弟は。
 ボーン、と時計が間抜けな音で朝の合図を告げる。あぁ、なんであれ俺は今から35分で身支度を整えなければならない。寝不足でぼやける頭を無理矢理に働かせ、備え付けの無駄に広いバスルームで洗面台に向かう。
 鏡に写った自分は主観的に見て酷い顔をしていた。亡霊のような土気色の顔を見ているうちに気持ちが悪くなって、胃液を嘔吐してから顔を洗った。前髪は隈を隠すのに役立っているだろうか。手足は震えてはいないか。もう吐き気はしないか。
 毎朝の確認を終えてからふと、夢の内容を思い出す。……実父も実母も全て幻だ。たちの悪い夢。
 俺の家族はひとりだけだ。あの子はまだ十にもならない。俺が守ってやらなければ、何も頼るもののないかわいそうな子。たったひとりの俺の弟。……もう一月も顔を見ていない、元気にしているだろうか、義父に打たれているのが俺だけなら良いのだけれど。
 俺は何をされてもいいが、あの子は違うんだ。弟だけは、絶対に傷付けさせない。……それが今の俺の弟にしてやれる全てだ。

 ……こめのルール。『弟だけは守らなければならない』。たとえそれが俺のエゴイズムだとしても。










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