ある朝僕は君を吐いた 2





 俺が海馬の家に入ってまず最初に覚えたのは、嫌味な家庭教師たちの嫌がらせ――例えば明らかに正しい答えを間違いだと指摘したり、一晩で終わるわけがない量の課題を出したり、習っていない範囲の問題を解かせたり――に耐える術だった。わからないと言って鞭で打たれても「申し訳ありませんでした、先生」と答えていれば所詮過ぎる痛みだ。知識を身につけるのは自分が力を得ていると実感するための一番の手段だし、もともと勉強は嫌いではなかった。特にプログラミングの授業は有意義だったし、痛みは次に相手の鼻をあかすための原動力になる。
 こちらが答えられないだろうとタカをくくっていた教師に完答を示すのはストレスの解消にもなる。とは言え連日朝から深夜までの講義に、その後も課題と予習に費やされろくな睡眠は取れない。増える傷と濃くなる隈、食欲は無くなってすっかり肋が浮いている。
 弟に会うことができるのは朝食、昼食、三十分の休憩時間、それに夕食。だが夕食の時間はすなわち義父との面談であり、最も緊張する時だ。テーブルマナーから今日のニュース、経済学、社会学、あらゆる面からの試験めいた問答、それに俺の態度や言動、どれも完璧にこなさなければならない。自分が叱責されるでもないのにかわいそうなくらい緊張している弟を一度席から外させて貰うよう頼んではみたが、何様のつもりだ、の一言であっさりと切り捨てられた。
 夕食以外も昼は講義があって抜かすことがあり、結局朝ぐらいしかいっしょに食事はできない。それでも弟との時間は俺にとって何より大切なものだった。あまり食べなくなった俺を心配して、自分の持っているお菓子をこっそり差し出す弟の優しさに心から喜んだ。が、クッキーなんか食べたら吐いてしまいそうだった。お前のなんだからお前が食べろ、と言うと泣きそうな顔をするので一応受け取ったが、ポケットに入れているのを教師に見つかり次の日手の甲に派手なミミズ腫れを作ってからは、聡い弟は何も持ってこなくなった。その聡さが好ましく、また辛かった。
 クッキーや飴玉を嫌いになったわけじゃないし、ココアだってまだ好きだ。だが義父に後継者として認められるには、教師はともかく義父の言葉にはまず従うべきだと思った。……そう、今の俺はただの子どもだ。海馬コーポレーションの椅子を渡すにふさわしいと思わせるためなら、どんな努力もしてやる。そのために手にしたチャンスなのだ。



 そんな生活が一年ほど続き、俺はわずかな時間をぬって様々なプログラムの勉強を始めた。教師、引いては義父の目を盗み、寝る時間を裂いての作業だったのであまり出来がいいとはいえないが、二月ほどで初めてのプログラムが完成した。それは3Dの画像データを4Dに処理する初歩的な仕組みで、特殊なフィルムを通して十センチほどの板状のプロジェクターを見ると平面的な画が全周の立体になって浮き出すという簡単なものだったが、肝はその小ささで動画の立体化も可能だということだ。もちろんそれなりの規模になると大掛かりな装置が必要となるが、きちんと元データを作り込んでおけば、わずかなノイズを除けばかなりの再現が期待できる。流石に見る角度によってはうまくいかないこともまだあったが。
 俺はそれをまず弟に披露した。弟は手放しで俺を賞賛して労ってくれた。俺は久々に見た弟の笑顔に心から満足し疲労を忘れて、きっと完成させてやる、と誓った。俺と弟はこのシステムの使い道、もちろん夢の遊園地での利用法をいくらでも思いついた。世界一きれいな景色やお化け屋敷の怪物、滑稽なキャラクターのアニメーション……以前施設の砂場で語り合ったように、俺たちは時間の許すかぎり、夢の中の素敵な楽園の話をし続けた。



 そしてその晩、俺は義父にそれを見せた。滅多に立ち入らない義父の書斎で、どうだ、と胸を張って。
 俺はその男が驚くことを期待していた。そして俺の能力と将来性を認めさせる足掛かりにでもなれば、と。

「……以上です」

 義父は俺の説明を聞くと、フィルムを手にとってしばらく葉巻をふかしていた。煙の臭いに眉をひそめながら俺は義父の言葉を待った。

「……それで、これは何に使える?」

 そして彼はフィルムを放ると、投影用の試作機を軽く叩いた。カッと頭に血がのぼるのを拳に力を入れて堪える。

「……まず、試してみては如何です?義父さん」
「余程の自信があるようだが、儂は子ども騙しに付き合うほど時間は無いのでな」

 馬鹿馬鹿しい玩具を作っている時間があったら机につけ、と義父は言う。

「明確なビジョンも無い商品を売り込む無能者は我が社には必要ない。ビジネスの勉強をやりなおせ」
「……商品の、試作段階でのテストや設計にも役立つかと」

 嘘だ。そんなことに使うつもりなんか無かった。ただ俺は、俺の力をあんたに見せ付けたくて、それで。

「ほう?こんなものがか」

 値踏みをするような目で義父は俺の機械を見る。やめろ。俺、は、それは、俺たちの、夢のために。
 畜生。畜生、畜生。

「……まぁいい、報酬をやろうじゃないか」

 俺は、そんなものが欲しかったんじゃない。金や商売のためにやったんじゃ、
 ……なら、なんのためだ。
 認められるためなら目的は達成したも同然じゃないか。義父から直接何かを与えられたことはない。
 だが、それは違うと身体中が異を唱える。俺が欲しかったのは違う。もっと違う、……待て。違う。落ち着け、瀬人。お前は今何を考えた?
 ――何て……、おぞましい!

「あり、がとう……ござい、ます」

 握った拳が、痛い。爪が食い込んでいる。顔を上げていられなくてうつ向いた。
 自分が許せない。俺は何を求めた?こんな男に何を。

「アレを」

 パチン、と義父が指を鳴らした。……何だと、まさか、そんな。準備が良すぎる。

「義父さん、あなたは、知って……」
「知らんとでも?瀬人、お前の行動は全て監視されているのだ。コソコソとこざかしい真似をして何を作ったかと思えば、くだらんものを」

 ……この男は。
 呆然とする俺の横を秘書が通り過ぎ、小さな何かの箱を義父の机に置いた。嫌な予感がする。何だ、あれは。

「開けろ、瀬人」

 握り締めていた手のひらをゆっくり開いた。汗で湿った震える指を、小箱に伸ばす。包装を解くのに時間は要らなかった。
 中に入っていたのは、皮の首輪だった。

「――ッ」

 思わず、投げ捨てた。柔らかく毛の長い絨毯に音もなく吸い込まれたそれを、義父は淡々と拾え、と言う。

「嫌です」

 何を意味しているのか薄々感付いた己を呪った。そうしたところで何も変わらないのは知っていたけれど、首を横に振った。

「拾えと言っている」
「嫌だ! 義父さん、これは何だ!?」
「お前のものだ。犬には首輪をするものだろう」

 とりわけ言うことを聞かん駄犬にはな。
 灰皿に葉巻を置くと、義父はゆっくりと俺に歩み寄る。そして再度、拾えと言う。
 ……俺はよろけながら首輪を拾った。幻などではなく、本物の冷たい皮の手触り。ああ、こんなもの窓から投げ捨ててやりたい!
 さっきまでは机を隔てていた義父との距離が縮まり、俺は相対しなければならなくなった。下を向きそうになるのを堪え、顎を突き出して首輪を押しつけるように渡す。義父は低く笑った。

「さっきのお前は、まさしく誉めて欲しがる犬のような顔をしていたぞ」

 目の前が、真っ赤に染まった。
 俺は衝動のまま右手を振り被って義父を殴ろうとした。だがそれより早く、義父が手加減ひとつせず俺の腹を殴り飛ばした。勢い俺は机に強かにぶつかって、そのままズルズルと床に滑り落ちる。
 執事や家庭教師どもにはよく鞭を振るわれていたが、義父に殴られたのは初めてだった。
 痛い、と思う暇もなく、今度は肩を蹴り飛ばされた。まるで目の前にゴミがあったから退かしたのだと言わんばかりに遠慮が無かった。咳き込みながら絨毯に這いつくばる体勢になった俺を見下ろして、義父は笑った。
 靴先で俺を仰向けに転がすと、義父は胸ぐらを掴んで、力の入らない身体であがく俺の首に易々と皮を通し、バックルを止めた。

「捨て犬には上等すぎる報酬だな」

 義父は俺の作品を見たときと同じ目で俺を見下ろしていた。肺が痛い。必死にその腕に爪を立てようとして、だが所詮子どもの腕力だ、床に叩き付けるように投げられて肺どころか全身が変な音を立てた。
 俺は、絶望した。ヒュウヒュウと鳴る喉にも酷く痛む肩にもヒリつく頬にも口から垂れる唾液にも、否定すらできない自分の醜態にも。何より、この男に首輪を填められたのだという屈辱に。
 自分は以前と何も変わらず未だ無力だったことを嫌と言うほど思い知らされて、立ち上がる気力すら沸かなかった。

 その時俺は人間としての尊厳、俺という人格すら否定され、痛みと頭痛とめまいと吐き気に加算された息苦しさでどうにかなりそうだった。いっそ、どうにかなってしまいたかった。

 俺はそのまま引きずられるように勉強部屋に連れられて、義父の手ずから彼の商売方針を叩き込まれた。否と答えると容赦なく鞭が背で跳ね、シャツに赤い染みを作っていっそうなじられた。
 痛みは耐えられる、罵倒だって慣れている。だが、俺のされたのは罰でも何でもなく、ほとんど虐待に近い教育だった。
 だがその知識こそ、俺が望んだすべてだった。……すべてである、べきだったのだ。
 弱い自分から目をそらせるほどの余裕も器用さも潔さも俺にはなかった。あの首輪はそんな俺への教訓だったのだ。逃げ出すことなど、もうできないのだと。



 三年後、俺のプログラムを改良し主軸としたソリッド・ビジョン・システムを男は軍事転用する。俺には当然拒否権もないままに、俺の作ったシステムは人殺しの道具として絶賛された。
 以来俺は、奴を義父と呼ぶのを止めた。










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 孤児院編は!めんどう!くさかった!バーン!