ある朝僕は君を吐いた 1





「まっすぐに立ち向かえば、どんなことも乗り越えられるさ。瀬人、お前ならきっと大丈夫だ。母様のかわりにモクバを守ってやるんだよ」

 はい、とうさま。
 優しい声に頷いた。そのちいさなちいさないきものが、自分の弟なのだ。今日からぼくはお兄ちゃんなのだから、それにかあさまにも約束したから。
 逃げずに立ち向かうこと。
 忘れない、絶対に忘れない。
 逃げずに、立ち向かうこと。

「よろしくね、モクバ。きょうからぼくがおにいちゃんだぞ」

 抱き上げたその重みによろけたぼくを、とうさまはしっかりと支えてくれた。弟はきゃあきゃあと笑い、とうさまがくすくすと笑うから、ぼくは泣いた。
 滝みたいに涙が次から次に溢れてぬぐってもぬぐっても止まらなくて、シャツの袖がぐっしょりと重たくなった。声が枯れてしゃくりあげることしかできなくて、びっくりしながら弟ごと抱きしめてくれたとうさまの腕の中でぼくはひたすら泣いた。

「瀬人、大丈夫だよ、瀬人。母様はお前を見ている。いつだって守っている」

 泣いて泣いて、笑っているとうさまや弟のぶんまで泣いた。もういないひとのことを思って泣くのははじめてで、だから間違ってもかあさまのことを呼ばないように歯を食いしばった。もう一生泣けないんじゃないかと思うくらいに涙が出て、泣きすぎで死ぬかもしれない、と思った。
 ――結果的に死にはしなかったけれど、泣いたのはそれが最後になった。





 こうして弟が出来たと同時に母はいなくなり、その数年後、父が死んだ。



 童実野埠頭側の急カーブで、ハンドルを切り損なってガードレールに向かって海に落ちた。即死だったと聞いている。
 その晩俺は遊び疲れたモクバを寝かせてひとりで本を読んで待っていた。いつまでたっても帰らない、帰ってくるはずのない父を、嫌な予感に震えながら。
 ……いや、予感というより俺はいつもそうだったのだ。母のように、瞼を閉じていたら父も消えてしまうのではないかと病的に脅え、どうか父だけは、と願っていた。

 ――あんたが、あんたのバラの花をとてもたいせつに思ってるのはね、そのバラの花のために、ひまつぶししたからだよ

 時計の針の音とそのフレーズだけを繰り返し読んでいたことを思い出す。そういえばフローリングの床がえらく冷たくて、ソファに毛布を持ち込んでいたのだったか。何度もコンロに立っては砂糖たっぷりのホットココアをミルクパンからマグカップに移し、ちびちびと口を付けながらもう一度本を開いて、そうしているうちに眠ってしまった。翌朝通いの家政婦が来て、それでようやく父の死を知ったのだ。
 呆然としたまま通夜があり葬式があり四十九日が過ぎても、涙は出なかった。

 この八年で最初に知ったこと、『願いは叶わないものだ』。そう思えばすこしは気が楽だった。





 葬儀のあとからの出来事は出来の悪い喜劇のようだった。
 あの優しかった父や母と血が繋がっているとは到底思えないような、禿鷹かハイエナのような奴ら。聞いたこともない名の叔母や叔父が涙を拭きながらずかずかと家に上がり込み、かわいそうにとうそぶいて無遠慮に俺たちの頭を撫でるから気味が悪くて、何が起きているのかよくわかっていないモクバを抱き寄せて無理にでもその手から逃げた。
 よくわかっていない、というのは俺も同じだった。何せやつらは俺たちが泣いている間に父が大事にしていた時計や絵画や母の形見のドレスやアクセサリーなんかを全部、見事なくらいにすべて、持って行ってしまったのだ。
 あまり当たり前のような顔でいるから初めはただ呆然とするしかなかった。「高円寺の叔母様」が父のカフスに手をかけたところでようやく口が動いた。

「それは父様のものです、もっていかないで!」

女は一瞬バツの悪そうな顔をしたがすぐに笑顔をとりつくろい哀れむような猫撫で声で、将来のために高価なものを換金して俺たちの口座にいれるのだと言った。馬鹿馬鹿しい。まったく馬鹿馬鹿しい。
 しかし残念ながらその頃の俺は今よりずっと馬鹿だった。信じた。頼った。鵜呑みにした。我ながら殺したくなるぐらい愚かだ。





 最初に俺たち兄弟を引き取ったのはその「高円寺の叔母様」で、母方の長姉ではあったが外見も性根も母とは似ても似つかない卑しい人間だった。
 初めのうちはそれでも我慢してお愛想を保っていたが、ある晩喉が乾いたので水を貰おうと居間に行ったところで、叔父と叔母が深夜にコソコソと話しているのを、聞いてしまった。

「何を考えているんだ、子どもをふたりも引き取るなんて……」
「いいじゃない。我が儘も言わないし、大人しくしてるわよ」
「下はともかく、上のは俺はどうも苦手だよ……小賢しい顔をしている。生意気なガキだ」
「あの子たちには保険金と遺産があるのよ。義弟が株と土地で相当稼いだったって、あなたも知ってるでしょう」
「それは……まあ、な」
「私たち以外にも「善意」で世話をしたいって人は多いし。いざとなったら、片方でも妹に預ければいいでしょ」
「せいぜい利用させてもらうか……あの兄弟を」

 きちり、と軋む音が頭蓋に浸透して――それで、理解した。気味の悪い笑顔の理由も、自分が何故ここにいるかも、何一つわかっていなかった自分の愚かさも。
 次の朝から、俺は奴らに媚びるのをやめた。ろくに笑いもしない子どもを扱いかねて苛立ちを隠さなくなった辺りでそれとなく父の遺産の話を持ち出すと俺を社会のゴミだの親無しだの穀潰だのと散々に罵って、挙げ句腫れ物に触るかのように親戚中を盥回しにされた。どいつもこいつも変わらなかった。可愛いげのない兄と泣いて喚く弟と、孤児ふたりを哀れむ振りをして金だけせしめれば用無しだ。自分は良心の塊だという顔をして、裏では平気で俺たちを悪しざまに言う。仕方なく養ってやっているのだ、そう態度で示してくる。
 俺は自分が無力なただの子どもであることを呪った。不安がる弟にしてやれたのはその無垢な耳を塞いで、「親切な大人」という仮面を剥いだ盗人たちの醜い言葉を聞かせないことぐらいだった。
 そのころの俺は子どもではあったが馬鹿ではなかったので、少し頭を下げれば幾分かでも楽になることはわかっていた。だが父との約束のために、どうしてもあんな奴らにへつらうことはできなかった。尻尾を振ってもどのみち遺産が無くなれば同じことだったろう。
 そんな毎日を繰り返した結果、気が付くとテグジュペリの絵本すら俺の手元には残っていなかった。俺に残されたのは弟の暖かいてのひらだけだった。全てを搾り取られた俺たち兄弟は、放り投げられるように施設に入れられた。右手には弟の脅えるちいさな手、もう片方の腕にはボストンバッグだけを持って、俺は孤児院の門をくぐったのだ。

 ……俺があいつらから学んだことはひとつだけだった。『まわりは信用できない、したほうが愚かなのだ』。










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 社長覚★醒