から笑ふ孤島の鬼 中





 暗い闇がコンクリートのすきまをぬって追いかけてくる。もつれそうな足、それでも走って、走って、逃げた。

「きれいな、ちいさな、かわいィ人間の、女の子だねェ」

 走っても走っても頭の後ろに老婆の声。そんな子どもはうまそうだ。
 その声に榊原詩織は首筋が恐怖であわ立つのがわかった。右に左に町を駆け抜ける。路地に入り歓楽街をぬけても誰もいない町に足音が響くばかりで、ネオンは影を強くするだけ。助けてくれる人は誰もいない、それどころか謗る人さえ。指をさし笑う人でさえも。

「足をへし折ろうか、腕をもごうか、最初にどこから口つけようかの」

 老婆は歌うように追いかけてくる。曲がった腰で一歩一歩ゆっくりと、握った包丁は地面と平行にわたしに向けられている。逃げても逃げても距離はちっとも遠くならない。いやだ。きつく結んだはずのスニーカーの靴紐がひどくゆるい。顔を切る風が痛い。

「何でよぉっ」

 わたしが何をしたというのだ。
 何もしてないじゃないか。
 ただ、ただいつもと同じに帰っただけなのに。どうしてわたしがひとりのときだけ。
 こわい。いきがくるしい。しんぞうがいたい。
 このままじゃ、あいつに捕まってしまう。
 たすけて。
 もう足が動かない。
 助けて、助けて、助けて。
 だれか、助けて。

「…………きみが手紙をくれた子かい?」

 やわらかな男の子の声が頭上から。
 驚いて立ち止まると老婆が笑った。甲高くてうるさくっておぞましい笑い声。怖い。
 ――あなたわたしを、助けて、くれるの?

「そうだよ、僕はきみを助けに来た」

 かかん、とコンクリートに硬い下駄の音、降り立った声の主の背中は、小さい。

「すぐ終わるから、僕の後ろに、隠れておいで」

 それでも、彼の言葉をわたしは信じた。男の子の、わたしより小さな背にすがるように。
 あの老婆がものすごい速さで向かってくる。男の子はどこからともなく鞭をしならせて、コンクリートをぴしゃりと打った。
 よく研がれた、きらりと冴える包丁の刃先があちらから。

「おまえの肉をおくれよぉぉぉお、おまえの肉をおくれよぉおお」
「できるなら、『 』したくはないのだけれど」

 老婆はきゃらきゃらと笑って、骸骨みたいな顔をぐちゃりとゆがめた。逃げてばかりいたから、その姿を見るのは初めてだった。
 抜け落ちた髪、ぎらりと光る濁った目、ぼろぼろの歯、腐ったみたいにはがれた皮と肉、ところどころのぞく骨、ぼろ切れみたいな着物。
 その姿からは想像できない速さで、老婆は襲い掛かってくる。

「いやぁぁぁあああ」

 こわくてこわくてこわくて逃げ出したいのに、わたしのからだは動かない。……ううん、動いちゃ駄目ってわかってるんだ。
 男の子の背中の後ろ、狭くて小さなここだけが、いまのわたしを守ってくれる。
 わたしはくしゃくしゃに泣きながら、彼の黒と黄色のベストを握り締めた。助けて、お願い、わたしを助けて。

「もう、お前は駄目だ」

 『 』しすぎたよ、食いすぎたんだよひとの魂、だったら僕は、お前の腹を裂かないと。
 ――ぞっとするよな、冷たい。声なんかじゃない、これは、何。
 思わずびくり、と震えたそのとき、鞭が老婆を絡めとる。ギチギチ縛り上げ、老婆が汚い歯で笑った瞬間。

「ギャァアアアアアアアアアアア」

 その体を幾万本の針が突き抜けた。
 ざわざわと逆立った髪が音を立てる、突き刺さった針の一本一本が蒼く光った。あっ、という間だった。
 あれだけ恐ろしかった老婆は、一度悲鳴をあげただけであっさりと消えていった。

 そして 明滅する ネオン。

「……ほら、終わったよ。言ったとおりにすぐだったろう」

 ほんの小さな子どもに言うように、彼は告げる。泣き散らしたまま呆然としているわたしを笑うでもなく、彼は無表情に続けた。
 今日はこのままうちに帰るんだ、親御さんには何も言わずに、こっそり裏から入るんだよ。靴や服は棄てるかきれいに洗ってね、このことは他言しちゃいけない、絶対に誰にも言ってはいけないよ。また怖い目見たくないだろう?
 わたしは頷いた、と思う。ただ彼の極端に瞬きのすくない大きな目を見つめてい、しばらくして、思わず口をついてしまった言葉。

「……名前を、聞いてもいい?」

 答えを期待したわけじゃなかった。
 それでも男の子は、口を開いて名乗った。





 がたんごとんと揺れる電車に、女子高生がふたりと小学生男児がひとり、そしてぱっとしないサラリーマン(私、高田寛人だ)がひとり。ほとんど赤字線だからこの時間帯でも乗っている人数はこんなものだ。
 退屈な雑誌から目をそらす。さっきから女子高生はきゃいきゃいとやかましい。恐らく本人たちにとってもどうでもいい話題でそこまで盛り上がれるのは若さ、だけではないだろうが、とにかくこのうだつの上がらない男にはとうていまねできない何かのおかげだろう。
 向かい側に座った小学生はといえば、きちんと揃えた膝に手を置いてまっすぐ窓の外を見ていた。長い前髪は見ているだけでうっとうしい。それより目立つのは、その足の下駄だった。彼からすこしはなれた女子高生たちの革靴と比べて、浮いている。しかし何百年も前からはき続けたように不思議にそぐわっていた。なんというか、その少年全体が使い古されたような雰囲気を放っているのだ。羽織ものだけやたら毒々しい色合いだったが。
 妙だった。何かがおかしかった。少年はどうやらこちらの視線に気がついたらしい。少し決まりが悪くて慌てて雑誌に目を戻す。矮小な自分がまたおかしい。
 雑誌を読むでもなく目を通していると、若い女性特有の甲高い声が耳に入ってきた。少し不快だが聞き流す。曰く、

「それでさ、黒と黄色のボーダーのちゃんちゃんこっていうの着てるんだって!」
「何それ、知らない!」
「ベストみたいなやつ!おじいちゃんみたいでさ、下駄履いてるの」
「下駄?何それえ」
「下駄は下駄でしょ。からーん、ころーんっていうさ」

 黒と黄色のちゃんちゃんこ。下駄。……まさかな。
 少年をもう一度見ると、その目はいまだにこちらを見ていた。

「でもそれ、怪談でしょ? 季節はずれえ」
「違うんだって。幽霊に襲われてる人を、助けてくれるんだってさ」
「うそお。正義の味方じゃん」
「ホントホント。だって、ユキのいとこの子が助けてもらったって言ってたらしいよ」
「ええー。小学生じゃあるまいしさあ」

 少年は、ゆっくりとこちらに向けて笑う。
 ……まさか。

「そう、小学生くらいの男の子で、髪の毛で左目を隠してるんだって」

 正義の味方の怪談。

「……きみは」

 呟くと彼女らがこちらを胡散臭そうな目でちらりと見た。何を思われたのだろう、そんなことはもうどうでもよかった。
 彼女達には、見えていないのだ。
 彼は手をゆっくりと上げた。私を指差す、いや、違う。私の背後を指差している。
 私はゆっくりと顔をそちらに向けた。ガラスに映った垢抜けない男の顔、がらんとした車内、制服のスカートの短い女の子、そして―――。
 他には何もいなかった。
 そんな、馬鹿な。
 くすりと笑う声のあと、慌てて振り返ると、ガラスの反射の正確さをただ証明しているだけだった。誰もいない。
 ……悪い夢でも見たのだろう。きっとそうだ。だってそうでなければ私は。
 おさまらない動悸と手にかいた冷や汗を握り締め、私はぶるぶると頭を振った。
 早くうちにかえろう。酒でも飲んで眠ってしまえば、また同じ朝が来る。
 あれは危うい、あれは怖い。










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