から笑ふ孤島の鬼 始





 早田謙介は赤くなった手をこすりながら、夜も更けたまちを歩いていた。右手に抱えた鞄の中の、まだ未採点のテストの山を思うとため息が出る。
 ほんのつい一月ほど前に教師としてここに来たのが、もう何年も昔のことのような気がしていた。
 そもそも教職についたのが数年前、担任を持ったのは初めてで、経験はまだ浅い。その未だ慣れない目から見ても、今度の生徒たちはみないい子たちだと思う。自分が受け持ったのは一年の四組、突然の教師の交代にも嫌な顔ひとつせずに受け入れてくれた。
 新米教師に早速学校を案内してくれたのは、小学校からずっと一緒だという三人組だった。
 元気な彼らの後ろをついていったことを思い出しながら、彼は冷たい夜の風に首をすぼめる。
 もう立秋も越えて遠い、アパートに早く帰ろう。抜け道をするならばまっすぐ行ってガード下、街灯が唐突に途切れた、まるで幽霊でも出そうな薄気味の悪いトンネルのなかを抜けなければならない。車どおりも人の利用もなく、そこここに雑草の生えたトンネルだ。
 実家の近くにもいくつかそういった場所があった。学校からの帰り道で、友人達と幽霊の噂話に花を咲かせた。暗くて湿ったにおいのする、どこかファンタジックな『怖い場所』。どこにでもある作り話。いつになっても子どもの考えることは変わらないのだ。
 そういえば、その三人の生徒たちは妙なことを言っていた。

「妖怪って、先生、信じる?」





 音楽室の前を通りがかったときに、ふと谷本という少年が聞いてきた。妖怪、と反芻して聞き返すと、彼は照れくさそうに笑いながら頭を掻いた。

「なあ、翔太、祐子」

 振り返ってふたりの友人に聞く。彼らは顔を見合わせて、すこし笑って頷いた。

「妖怪って……」
「私たち、妖怪に会ったことあるんです」

 利発そうな少女――村上が言った。
 ずいぶん子どもらしいことを言う、と内心でつぶやいてから、早田は笑った。

「あーっ、先生笑ったな!」
「妖怪って、ほんとにいるんですよ!」
「そうだな、いたらおもしろいだろうなあ」
「いたら、じゃなくてさ。いるんだよ」

 眼鏡をかけた鈴木はほんのすこし諦めの混ざったため息とともに、先生も信じてくんないんだ、と独り言のようにつぶやく。
 谷本も鈴木も村上も他の子より多少大人びてはいるが、まだ子どもなのだというのをはっきりと感じた。怪談話を本気にしているのだ。
 大方夜半のテレビ番組にでも影響されたのだろう。

「はは、でもそれじゃ、恐いな」
「恐くなんてないよ!」
「そうそう。悪い妖怪もいるけど、いい妖怪もいっぱいいるもんね」
「それにあの人がいるだろ、ゲゲ……」

 熱が入り始めた三人をなだめ、あんまりテレビばっかりみるんじゃないぞ、と注意すると、三人はへそを曲げてしまったのだった。





 正直、近頃の子どもはああいったことは言わないものだと思っていたからすこし面食らった。不思議なことや、怪談などを無邪気に信じている。早田はほの暗いトンネルに向かって歩きながら、微笑む。
 月明かりさえ届かないその中に入ると、足音が響いた。ほんの小さなトンネルだ。ときどき石ころに躓きそうになりながら、すぐに半ばを越えた。やはり中の空気はじっとりと湿っている。ちろちろと視界の端をかすめた、あれは蜥蜴かそれとも何かの虫か。
 おそらくはこのトンネルにも何かしら『不思議』があるに違いない。何人かの生徒がこの近くを通学路として利用していることもあるし、格好の心霊スポットだ。おばけが好む場所は何年立っても同じである。

「妖怪なんて、まったく。子どもってのはかわいいもんだなあ」

 微笑みながら小さく呟く、――と。



「妖怪はいますよ」



 背後から、声がした。
 ばっと後ろを振り向くと、入り口のところに、小さな人影がひとつあった。
 長い前髪で片目は隠れている。月の光のために逆行になってよくは見えないが、制服のようなものを着ているところを見ればどうやら小学生らしい。時代錯誤にも素足に下駄を履いているのがわかった。
 ……下駄?
 さっきから今まで一度も下駄の音などしなかったのに?というよりも、自分以外に物音を立てるものはなかったような。
 いや、なんにせよこんな児童がこんな時間に、しかもひとりで出歩くなんて危険すぎる。

「きみ、うちはどこだい?危ないじゃないか、こんな遅くに」

 すこし説教臭くなったかな。反省しながら急いで歩み寄ると、子どもはすッ、と手のひらを前にかざした。『止まれ』、と言うようにして。

「妖怪は、いますよ」

 歳不相応に落ち着いた声は同じことを繰り返す。さっきの独り言を聞いたのだろう。

「それよりきみ、早く帰らないと……」
「帰れませんよ」

 このトンネルからは出られない。
 少年はほどんど表情を動かさずに言う。

「あなたも、僕もね」
「……は? 君は何を……」

 妙なことを言うのに眉をひそめると、彼はゆっくりとこちらに近づいてくる。からん、ころん、とどこか懐かしい音がコンクリートに響いた。
 真っ暗なトンネルの中で、子どもはしっかりと自分に向かってくる。迷いはないようだ。入り口のあたりにいたころは彼を確かに照らしていた月光が届かないところまで来てようやく、早田は少年をまともに見た。
 まともに、といっても暗闇だ、はっきりとした顔立ちが見て取れたわけではない。色の薄い髪は子どもらしく細く、首も肩も当然身長も小さい。あらわになっている片目は大きいが、ぽっかりと開いた穴のように何の色もなく乾いていた。そんな目で見られたことなど早田にはなかった。一瞬たじろいだ己を恥じる。こんな小さい子に、俺は何を。
 しかしその皿のような円い目でじっと見つめているのは、早田ではなかった。頭の上を通り過ぎ、壁を見上げている。ただ、じっと。
 お互いが黙り込んだまますこしの間があって、目が徐々に暗闇に慣れてきた。
 少年は、これもまた時代遅れのちゃんちゃんこを羽織っていた。黒と黄色の縞が夜目に映える。何故これが今まで見えなかったのか不思議なくらい、変わった色の組み合わせである。
 上から下まで、ところどころ擦り切れた学童服に下駄履きにちゃんちゃんこと、ひたすら時代錯誤だった。
 とかく、こんなに幼い子供を放っておく親には文句を言わねばなるまい。

「それより、ぼく、お母さんは?」
「…………やれ、やれ」

 こちらの発言にまるであきれ返ったその声は、年老いた男性のものに似ていた。しかし確かに目の前の子どもが発したものだ。
 虚をつかれていると、彼がため息をつく。それもどこか子供らしくない。
 答えるつもりのないようなので、もう一度問いかけるつもりで口を開いた。
 と、不意に肩を叩く感覚に気がついた。叩くというよりは殴るようなそれに、思わず振り返ろうとする。そこに、大きな叱責の声がかかった。

「振り返ってはいけない!」
「なっ?」

 あまりに鋭い声に驚くと同時に、こんなに小さい子に注意されたことに少しむかっ腹が立った。しかし、少年の目付きが思ったよりずっと真剣なものだったので、情けないことに迫力に飲まれて声が出なかった。

「お前はもう死んだんだ。この場所に何の未練があるのか知らないが、無関係な人を巻き込むのはやめろ!」
「は……? 死んだ? 何の話だ?」
「あなたは黙っていてください!」

 ぴしゃりとトンネルに怒りの声が響いた。
 その声に、またいらっときて言い返す。

「さっきからなんなんだッ! くだらないことを言っていないで、子どもは早く帰りなさい!」

 叫ぶと少年はまたため息をついた。懐からごそごそと何か丸い陶器のようなものを取り出すと、その突起した部分を口に当てる。
 と、やわらかい音色が狭い空間に響いた。――オカリナ?
 音を知覚した瞬間背中にもう一度叩かれるような感触がし、ぎりぎりと肩を握りつぶされる。痛みにうなるが子供はそれを一瞥するだけだ。畜生、何が起こってるんだ?
 しかし、振り返るのはためらわれた。子供の言っていたことがどうというより、彼の背後にぼんやりと浮かぶ、青白い炎を見たせいだ。音色に合わせるようにゆらゆらと揺れる光。
 ……な、んだ、あれは。

『呼んだかい?』

 しわがれた老爺の声が、その炎から聞こえた。何なんだ、何が、起きてる?
 すわ幻覚か、と目を白黒させる早田を現実に呼び覚ましたのは、肩の痛みだった。

「い、痛い!!」

 ごりごりと骨が擦られる。痛い。岩でできた手のひらか何かですり潰されるような痛みだ。
 目の奥がチカチカして、体が重くなる。何なんだ、何なんだ何が起こってるんだ、俺が何をしたって言うんだ!!
 早田はどっと自分を襲う倦怠感と寒気に歯の根が合わなくなってきたのを自覚する。音色だ、あの音が、この手のひらを強くしている。

「や、やめろッ、痛いっ……だ、誰か助けてくれっ、骨が折れるゥ!!」

 何もかもが突然でパニックに陥りながら、早田は痛みによる恐怖から、喉の力を振り絞って叫んだ。狭いトンネルに彼の悲鳴が木霊する。
 ふぅ、とオカリナを口から離すと、少年が言った。

「助力を頼むよ、つるべ火」
『おう、承知したよォ』

 炎は確かに喋った。そのしわがれた「口」の動きは、愛嬌タップリで、何故か笑えてしまった。










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リメイクバージョンです。