A Tissue of Lies





 知るということはどういうことだろうか、とこのごろよく考える。
 長い間、いまの身体パーツがなかったころ、僕は何も知らず、マチコ――僕の大事なひと――の言葉がすべてだった。おはようレムス、わたしのお友達。僕はその声で朝を知り、マチコがいるときだけが僕の朝だった。彼女がいないとき僕はひとりだ。彼女がいれば僕はひとりじゃなくなる、目覚めている。そうでないとき、僕はほとんど眠っている。
 いまならわかるが、そのころの僕には「目」がなかった。必要なときに視覚器官に直接コードをつなぎ、電気刺激によって映像を受け取るようになったのもだいぶあとになってからの話で、僕は「見る」という知覚を知らなかった。というか、五感のほとんどをよくわかっていなかった。ただし「聞く」ことは別だ。マチコは僕にいろいろな話をしてくれたし、僕に歌を教えてくれたことだってあるのだ。彼女の声が好きだ。マチコは声だけだってきれいなんだ。
 僕はほんとうに長いこと暗闇にいた。長いこと、というのは、僕には時間の感覚がろくになかったのだ。マチコは最初から僕のそばにいてくれた。彼女は優しくて、頭がよくて、とってもすてきなんだ。僕は世界を知らないけれど、マチコほどすてきなひとはいないに違いない。ああ、僕に知識があったなら、もっとうまく彼女をほめてあげられるのになあ!





 「見る」ことを教えてくれたのはロックだった。
 彼はある日いきなり僕のところに現れた。マチコ以外のひとに会うのは初めてだったから、初めはとてもびっくりした。ロックは血は繋がっていないけれどマチコの弟で、彼女のことをよく知っていて、僕らはすぐに打ち解けた。何も知らなかった僕の、ふたりめのお友達だ。
 ロックの声はマチコとはぜんぜん違っていたけれど、ときどき似ていた。マチコよりもすこし低いけれど同じくらいやわらかい声。彼はマチコよりいろんなことを話してくれた(でも、歌は歌ってくれなかった)。
 ある日彼が、プレゼントだよ、と僕にコードをつなぎ、ビデオを見せてくれた。
 初めはとにかく何かがぴかぴかと光って、何がなんだかわからなくて悲鳴をあげてロックを慌てさせてしまった。あれは「まぶしい」ってことなんだとあとからわかった。
 「見る」訓練っていうのは難しくって、僕が彼のプレゼントをちゃんと受け取ることができるようになるまで、けっこうかかった。彼は根気よくつきあってくれた。そのころになるとマチコは忙しくなって、代わりにロックがたくさん来てくれていたのだ。
 そして、僕はマチコを「見た」。
 本物の彼女じゃないけれど、映像の中のマチコを見たのだ。
 きれいだった。マチコは、やっぱりきれいなひとだった。
 そのあともいろんな映像を見たし、身体を手に入れてからはもっと違うひととも知り合ったけれど、彼女よりきれいなものはなかったと思う。僕はロックにねだって何度でもマチコの映像を見せてもらった、自信に満ちた微笑みを浮かべるマチコ。僕に話すときとはまた違う声で何かすばらしいことを語るマチコ。彼女は、きれいだった。
 僕はマチコのことをもっとよく知るべきだと思った。マチコが言っていることも全部わかるようになりたかった。たくさんの本を読んで、わからないことはロックに聞いた。彼は僕の質問に丁寧に答えてくれた。僕はいろんなことを知った。日にちの数えかた、文字という概念、陽の光、「からだ」というもの、食べたり話したり歌ったりすること。
 同時にわからないことがたくさんありすぎることも知った。でも、知るってことはすてきだ。全部がマチコに繋がってる気がする。そう言うとロックは笑うけど。





 いま、僕はマチコに身体をもらって、彼女にお礼を言いに行く練習をしている。
 本当は目を覚ました瞬間に飛び上がり、そのままの勢いでマチコのことを抱きしめて感謝の気持ちを伝えたかったけれど、身体を動かすのはそんなに簡単じゃなかった。
 ロックといっしょに何日もかけてようやく歩けるようになって、口の動かしかたを覚え、目の使い方を試し……マチコに会いたい一心で必死に練習した。あとは彼女の仕事のあいまを見つけるだけだ。僕がこうしていられるのも、何もかもマチコのおかげなんだから! そして、もちろんロックの!

「ありがとう、ロック。早くマチコに会いたいな」

 さらさらとしゃべることができる自分が誇らしくて、僕はずいぶんおしゃべりになった。ロックはもともと物静かなほうらしく、にこ、と微笑むだけだ。それでも別にかまわない。
 確かに彼はマチコにあまり似ていなかったけれど、優しい声のままの容姿をしていた。そして、僕の身体よりずいぶん小さくてびっくりした。全体の大きさもそうだし、手や足の大きさだって僕とは全然違う。
 彼はなにごとかについて思案する、あるいは昔のことに思いをめぐらせるとき、手で首もとをいじってみせる。喉の飛び出した骨を人差し指と中指で撫でるようすはじっとなにかを吟味しているようで、彼の首の細さを妙に意識する。もし自分の身体をうまく制御できない僕が彼の首に触れたら壊してしまいそうだった。
 彼が身にまとった白衣がこすれるたびに小さな音をたてる。普段は上まで止めたボタンがいまはひとつ開いて、そのすきまに彼の細い指先が入り込み、自分の喉を撫でているのだった。
 抱えた端末に触れるでもなく、何か作業をするでもなく、ただぼうっと宙を見て、彼は深い考えごとをしているようだった。
 僕はそんな彼の注意を引きたくなって、机をひとつ隔てて向かい合って椅子に座っていた彼に、真正面から声をかけた。

「ねえ、ロック」

 悲しいことが一度に来るのと、少しずつ少しずつ降りつもってゆくのと、どちらが楽なんだろう。

「……レム、ス?」

 自分でも驚くような、唐突な問いが口をついて出た。ロックと一緒にぱちぱちと瞬きをし、首を傾げる。どうして僕はそんなことを聞くんだろう。何故彼に聞いたんだろう。何を知ろうと思ったんだろう?

「ごめん、なんか、ヘンなこと聞いちゃったね」
「……いや、そんなことないよ」

 ロックはいつものようにほんのすこしだけ笑った。そんなこと、ないさ。
 そしていきなりうつむいた。

「ロック?」

 動揺する、彼は深くうつむいている、おそらくは悲しいとか、痛いとかだ。僕が発した質問のためにつらい思いをしたんだ。
 さっき、一瞬だけ見えたロックの目尻に見慣れない光るものを見たような。そんな気が。たぶん、おそらく。視覚センサーにゴミでも入ったんじゃなければ。なんだろう。
 とはいっても、いまやロックは両手で顔を覆っていて、どんな表情をしているのかは定かではない。が、うすっぺらい肩をふるわせて、切れ切れに漏らす吐息が不安定に揺れる。

「どうしたの」

 ようすを確かめようと身体を動かす。彼を壊さないようにそっと腕を動かそうとした瞬間。

「ごめん」

 いきなり視界が真っ暗になった。
 ロックの手だ。声といっしょで湿って、震えてる。
 肉はないけれどやわらかいてのひら、ぎりぎりのところで僕の皮膚には触れていない。ただ一枚の幕として彼のなんのにおいもしない手が視界をさえぎって、細い骨ばった指の間接、その隙間からうすく光がとおっている。やわらかい肉が赤く透けて、ああ、ロックの手だ。
 紗いちまい隔てたようなぎりぎりの距離で、彼の手が揺れている。

「ロック、見えないよ」
「…………」
「どうしたの、怒ったの? 僕がヘンなことを言ったから」
「…………」

 彼がいまどんな表情なのかはわからないけれど、きっとさっきのような痛そうな顔をしているんだろう。あるいは、あの薄い唇を噛んでいるかもしれない。このところロックはよく唇を噛むから、すこしだけ赤くなって荒れていた。それもきっと痛いんじゃないかと思う。
 痛いときは痛いと言いなさい、とマチコは言っていた。わたしはあなたを苦しめたいわけじゃないのよ、わたしのお友達、わたしの家族。やさしい声でそう言ってくれた。

「ロック、どこか痛いの?」

 彼を傷つけたのはどうやら僕のほうで、彼が見てくれるなと言うのならそれに従うしかないのだけれど。
 もし僕がはじめから体を持って生まれてきていたなら、何の役にも立たずにおろおろと宙をさまようばっかりの腕をどう使うべきか知っていたのだろうか。傷ついた顔をしているのは自分のほうなのに、ごめんね、と謝る彼を励ます術を知っていたかもしれない。彼の痛い理由がわかってあげられたかもしれない。
 でもいまはなにも見えない。真っ暗だ。彼の手のひらに覆われて何にも見えない。まるで身体がなかったころのように。眠っているみたいに。
 僕はロックがなぜ痛いのかを知りたい。見るのは知ることだ。やろうと思えば僕は彼の腕を掴んで彼の顔を見ることができる。いまの僕にはそれができる身体がある。けれど、彼はたぶん見てほしくなくて手を。

「ロック」

 彼は答えない。やわらかい手は僕の目をふさいだまま。

「どうして目隠しをするの?」

 冗談めかして言ってみてもだめだ。
 ああ、君はほんとうになにもわからないままだ。どうして、なぜ、わからない。教えてほしい。君は何でも教えてくれる、そうだろう。だって君は優しいから。
 途方にくれていると、ロックが苦しそうなため息を吐いた。
 重くて、熱のこもった、いやなため息だった。彼のあの薄い唇、赤く腫れた唇からそんなため息が出るところが想像できなくて、手のひらが動いたことに気づくのに一瞬遅れた。
 果たして、ロックは、まったくいつもどおりの、でもすこしだけ困ったような顔を、していた。
 痛みも、悲しみも、湿った手のひらも、重いため息も、何もかもなかったような。
 さっき見た、聞いたのは何だったんだろう。彼の手で全部拭われてしまったんだろうか? でも、僕は確かにぜんぶ見たはずで、視覚センサーにゴミでも入ったんじゃなければ……。
 全部間違いだったんだろうか。だって彼は何でもない顔をしている。ちょっと笑ってさえいるように見える。わからない。



「きみは知らないんだ、ぼくがきみに、どれだけひどいことをしているか」



 彼が最後に言った言葉だって、間違いかもしれない。
 僕は何にもわからないまま、彼の荒れた唇が薄い笑みを形作るのを見ていた。










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