掌の空





 わたしはゆめをみている。

 わたしは目の前に何か大切なものがあるということを知っていた。そこが夢の世界だと言うこともよくわかっていた。これが誰の夢かを主観で決めることができないことすら理解した。
 わたしは手を伸ばし、それに触れようとする。けれどそれは明確なかたちを持たない靄のようなもので、わたしの指のすきまをすぅっ、と抜けてゆく。

「わたしはあなたとおなじよ」

 口をついて出てくることば。わたしの知ってることば。
 しなやかに伸びた腕、握りしめた手のひらはやわらかいのに冷たくて妙に華奢だった。
 彼はわたしの手をとると金色の目を細めた。飼い猫を見つめるような視線で、彼はわたしの名を呼んだ。
 白い喉から飛び出した音、数十年は昔の発音がそのなめらかな、起伏のない咽喉から飛び出す。わたしの愛しいとこしえの少年は日焼けのない瑞々しい肌で、鈴の鳴るようなやさしい音色で、からからに干からびた化石のような喋りをした。
 わたしは心臓がどくどくと痛むのを感じた。興奮だ、昂ったこころが心拍を乱している。

 いいえ、それが何になるというの。

「あいしてる」

 あいまいに、笑って誤魔化す。とたんにわたしの心は炎を宿し、俄に燃え上がった。
 ああ、人間のふりをしてやっぱり彼はなんてにくたらしいひとでなしだろう!

「わたしと同じのくせに、」

 彼が悲しそうな顔をする。わたしにはわかる。これは仮面だ。いままで踏み越えてきた屍を溶かして固めた仮面。
 わたしはとてもよく知っている。
 長い年月を生き、飽きるほどの痛みを負いながら、なんにも知らない子どものように笑える理由を、わたしは知っている。
 ようは、痛くないふりをすればいいのだ。無垢なふりで、傷を持たない自分を演じればいい。忘れたふりをすれば、まわりは何にも気づかない。

「ひとりだけ、自分だけ傷ついてるとでも」

 言い募るのに、彼は相も変わらず薄く笑うばかりで何も言わない。わたしの名を呼んだぎり。
 そうだ、彼はこたえてやらないという手段でもってわたしを拒絶する。
 自己を持たないふりをして、ぜんぶわたしのせいにして。

「あなたはあなたをどこへやったの」

 彼は首を傾げる。

「ぼくはここにいるのに」

 すとん、と投げた石はどこにも当たらなかった。雲ひとつない青空のようだ。
 触れてもなにをしてみても、わたしは彼に干渉し得ない。それならばいっそとけてしまえればいいのに。
 そう思って、彼の細い腕に指を食いこませる。やわらかくしっとりとした肌は簡単に突き破れそうだ。わたしは指の腹で彼の二の腕のあたりをさすり、特に幼くふにゃりとした部分にぐっ、と爪を立てた。
 想像どおりに、とぷん、と皮膚のなかに指が埋まった。

「いたい、」

 ぽつり、と感情を宿さない呟きが落ちた。
 痛みを口にしたくせに、彼は抵抗しなかった。
 彼のからだに侵入した指先はぬるま湯のなかにあるように無感覚で、肉の感触もしなかった。無抵抗、無反応、わたしと彼との間には皮膚すらなく、からだとからだが確かにつながっているのに、わたしは彼を感じられない。

「あなたはひどいひとだわ」

 ずぶり、ずぶり、と、彼にわたしを埋めてゆく。
 それなのにこのひとは、どこにでもいてどこにもいない。
 わたしのことを認めもしない。

「わたしはあなたとおなじよ」

 口をついて出てくることば。わたしの知ってることば。

「わたしとあなた、お互いしかいないのにあなたはどうしてヒトの相手なんかしているの」
「わたしにはあなたしかいないのに」
「わたしと戦いなさい、わたしを見なさい!」

 彼は感情のない微笑みを浮かべて、小さく、ほんの小さく裂けた唇からわたしを拒絶する。それはあまりに鋭く冷たく、わたしを通り過ぎて。

「いやだ」

 なんの意味もない、ただの空気に何度だってわたしは殺される。










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