跡部のこと






(忍足侑士の場合)


 部活が始まる前、部室ですれ違った同級のヤツが世間話ついでに「跡部ブチョーってマジでなんでもできるよな、完璧っつうの?」と言ったので、俺は首を傾げてもうた。
 確かに映画みたいな男だとは思った。
 派手だし動作も大きい、初めはわざとらしいと思いはした、けれどもどちらかと言えば、役者というよりバラエティの芸人に近いものがある。盛り上げようとしている、とでもいうのか。

「いやあ、跡部はあれで、かなりアホやと思うで」

 相手は驚いて、声を潜めてそういうこと言うなよ、と忠告しさえしたのだけれど。
 俺は本当にそう思う。入学当初からこの数ヶ月、あらゆる人間がバッタバッタと跡部に傾倒していくのを眺めていて。
 跡部は部の中にそれまで明文化されていなかったヒエラルキーを作った。レギュラー、準レギュラー、ヒラ部員。それぞれのレベルあわせてまず分類。練習のレベルも個々に合わせたものに作り直し、班別行動を義務付け、問題のありそうな班があればすぐに声を掛ける。踏ん反り返ってソファーに座っているだけかと思ったら、跡部は部活中は一度も座らん。腕を組んで立ったまま、コート内の全てに意識を向ける。その面倒見の良さと言ったら!
 どれだけ邪険に扱われようと先輩らにも指導をし、悔しいなら俺を倒せと焚きつける。入部したはいいものの全然部活に来いへん芥川の首根っこを掴んでズルズル連れてきたときはオカンかと思ったし、いちいち噛み付いてくる宍戸の相手をしているとこなんかアホなんちゃうかなと思う。
 無視すればいいのだ。
 俺様は強い。だから弱いやつのことなんか知らん。勝手に落ちこぼれてればええ。
 そんなふうに手放してしまっても、もうだれも跡部に文句は言えへん。せやけど跡部はいつもいつも口を酸っぱくして繰り返す。

『俺様がいる限りは、ひとりの負けも許さない』

 ゴーマンそのものだ。温情なんかではない。跡部は勝利しか欲しくないのだ。自分の前に、掴み取った白星を積み上げろと言う。
 ヒドイやつだと口々に言われる。性格破綻者、王様気取り、そんな悪口はいくらでも聞くことができる。
 だけれど、跡部は、ただ威張っとるだけやない。
 理解者ぶるつもりはないが、あえて誰にも理解されなくていいと振る舞っているような跡部は、どこか危なっかしく見えもする。
 敗者vs全部員総当り戦を経、一年目の関東大会後、ほとんどの先輩は蹴落とされた。かろうじてレギュラーにしがみついたのは元部長だけで、当然のように跡部には敗けた。春の測定で160を超えた俺の視点から見ると、跡部の頭はまだひとまわり小さくて、そろそろつむじが見える。大柄ではない。むしろ小柄でお坊っちゃまらしく線も細い方。ただし筋肉量が俺たち(テニス部の連中全員)とは全然違っとる。
 尋常ではない重さのボールを簡単に打ち、どんな場所に返しても必ず拾う敏捷性もある。こちらが抱える問題点を的確に見抜いて攻め抜く戦略的でねちっこいテニス。入学したときからすでに跡部は誰よりも強かった。だから、テニス部はもう名実ともに跡部のものだ。
 勝者となった跡部の冷たい笑みを見るたび、限界を感じちゃいないかとヒヤヒヤする。アイツが本気で走ったら、俺らなんかすぐ置いて行かれるやろなあ。なのにアイツ、俺らの手を引くのに躍起になっとる。うーん。

「やっぱり跡部はアホやなあ」

 その俺の呟きは、今日もわざわざ寝ぼけたジローを引きずり部活に現れた跡部に、ばっちり聞かれてもうた。





(向日岳人の場合)



 教室を出て部室に向かって行く道中にひとだかりができていたので、その原因にはうすうす勘付いていたけれども覗きに行ってみると、案の定。
 まず目についた、よく磨かれた爪が、両の手で10個ずつ、ふたそろい。片方は名前もよくわからない、いっこ上の学年の女子のもの。いつの間にか来ていた侑士がいうにはミス氷帝候補らしく、たしかに綺麗だと思うけど、そんだけだ。
 染めたんだろう茶髪に丁寧な化粧、ちょっと濃いチーク、ウチの学校にしてはめずらしく下品ぎりぎりまで着崩した制服なんかも、スタイルと顔がいいからなんとか様になってて、自分にそれなりの自信があんだろなあ、と思う。なんか塗ってんのかな、爪に太陽光が反射してまぶしーんだけど。よっぽど気に入ってんのか、話の最中でも何度も自分の爪をさわったり、見つめたりしている。

「跡部くん、わかってもらえた?わたしの言いぶん」

 しゃべると見た目よりお嬢っぽい。にこっ、と微笑んだかんじ、そんじょそこらの高校だったら、さぞ持て囃されただろうなーってくらい堂に入ってた。
 でも、ま、相手が悪かったぜ、先輩。喧嘩をふっかけたのは、立派だと思うけどさ。

「さっぱりわからねえな。つまり何が言いてえんだ、あーん?」

 もう片方の爪の持ち主、男子テニス部部長、跡部景吾。
 跡部は明るい栗色の髪をかきあげ、いかにも生意気そうな笑みで活き活きと彩った。すっきり着こなした制服は、オレんちみたいに「成長を見越して大きいのを買っとこう」なんて庶民的な発想はいっさいしてない、現在進行形成長期の跡部にぴったり合わせて作られたサイズ。手足が細長くてシャキッて伸びてて、シャツやズボンもキッチリアイロンされてるし、ローファーもいつもきれいなもんだ。爪だってピッカピカで、跡部の場合はそれが当たり前だから、いちいち注意を払ったりはしない。すべてにおいてそうだ、こいつって人間は!
 跡部のようすにやや怯んだふうのセンパイだったけど、すぐに持ち直して、対抗するみたいに優しいふんわりした笑顔を浮かべた。跡部の攻撃的なのとは正反対の。作戦としてはアリやな、と侑士が呟いた。ただ素のレベルが違いすぎて勝負になってない。

「じゃあわかりやすく言ってあげる。つまり、あなたのその態度が、風紀上よろしくないと……」
「風紀、ねえ。ウチに風紀委員なんてあったか? いや、確か5年前まではあったんだったな、これは失敬した、大先輩」

 お返しと言わんばかりの、ゴージャスかつ適度にひとを見下した笑顔。うんうん、こんな顔できるのは跡部くらいだ。すっげー腹立つ。
 案の定、センパイは顔を真っ赤にして肩をいからせた。

「あ、あなたね、そんなだとこの先困るわよ、いろいろと」
「お心遣い痛み入る。だが、余計な世話だ。俺様は俺様のやり方でやる。……それと」

 跡部は完璧な口調と完璧な表情と完璧な動作で、死ぬほどムカつくかんじを演出するのがほんとにうまい。そこに磨きあげられたイケメン顔がくっつくと、もうほんと完璧。泣きぼくろの一つまで、クソクソ完璧にやなやつ。パーフェクトに悪役だ。

「てめえの取り巻きの躾がなってねえのを他人のせいにするんじゃねえよ、ばぁか」
\キャーーーーーーーーッ 跡部様ァーーーーーーッ!!!!/

 なのになぜか女子に人気爆発ってのが、ほんと跡部ってば面白すぎる。もはやギャグだっつの。
 しかも今のでセンパイが跡部にファンを取られたのが悔しくって当たりに来たんだとみんなにわかってしまった。
 ホンモノの金持ちである跡部はそれこそ頭のてっぺんから足の先まで誰かの努力が施されてないとこがないんじゃないかと思う、センパイのちょっとがんばったおうちエステとは違う、マジもんの自宅美容だ。センパイが平静を取り戻そうと髪をかきあげると市販のシャンプーの匂い、跡部はそれを笑って自分の前髪をさらりと払った。跡部のために調合されたとかいう薔薇の香りがセンパイの存在感をかき消して、特大の歓声があがる。隣の侑士は「ほんとイヤミなやっちゃなぁ」なんてニヤニヤしてやがるし。

「さて、いい加減ぎゃあぎゃあ喚くな、メス猫どもッ! 部活の時間だ。散れッ!」
\はい、跡部様ぁーー!!/

 驚くべき統率力で、跡部の親衛隊ってやつらが蜘蛛の子散らしたみたいに去ってゆく。跡部はフッ、と鼻で笑うと、てめーらも練習さっさと始めろ、と準レギュと俺たちに向かって言いつけ、さりげにずっと立っていた樺地をともなって去って行く。その様子もいかにも跡部で、なんていうか、跡部だった。
 どこからどこまでパフォーマンスで、どこからどこまでが本気なんかわからんやっちゃ、と侑士が言う。

「ていうかメス猫て何や」
「メス豚じゃねえんだもんな。謎だ」
「いやそういう問題やのうて……まあええわ」

 どーいう意味だよ。
 ぽかんと立ち尽くしたセンパイは、かわいそうに誰にも相手にされない。跡部はさっさと部室に入ってったし、もうここにはセンパイの味方なんかいない。カワイソーだけど、勝てない相手に喧嘩売ったらこうなるのだ。

「先輩、落ち込んでるとこ悪いんやけど、車……ちゅうかジャンボジェットに轢かれた思て諦めたほうがええ思いますわ」
「……」
「跡部をまともに相手しよーとしたらどツボにはまるぜ」

 跡部は自分のやりたいようにやる男だ。そのための努力は惜しまないし、周りになにを言われようが気にしない。ほんとうに、かけらも惜しまないし、気にしない。普通に暮らしてたらあんなの規格外だよな。
 と、いきなりセンパイがぶるぶる震え出し、オレと侑士は目を見合わせた。

「……ま」
「あ、これはあかんやつや」
「あかんやつ?」
「跡部様ぁーーっ!!」
「……ほらな」
「……あーあ」

 だから言ったのに。気にしたこっちがバカみてえ。

「行くで岳人、跡部にどやされる」

 目玉をハートマークにしてメス猫軍団に飛び込んで行ったセンパイを見送りながら、オレたちは小走りで部室に向かったけど、案の定跡部には叱られた。
 クソクソ、誰のせいだと思ってんだよ!






(芥川慈郎の場合)


 跡部は王様だった。
 跡部はすごい。毎日がドラマで、マンガみたいで。

「あいつ、ほんとふざけてるよ」

 珍しく跡部が打ってくれてすっげー楽しかった部活が終わって、帰り支度をしてたところで、ふと忘れ物に気づいた。施錠時間になっちゃう、どーしよ! って言ったら跡部が待っててやるから取って来いって言ったから、ジャージに制服のズボンはいて(なんかみんな突っ込んでたけど気にしない)教室に駆けこんだ。その帰り、階段降りた2階の男子トイレの前を通りがかると、吐き捨てるみたいなきたない言葉が聞こえておれはふと立ち止まった。

「ガイジンのことだろ?」
「決まってんだろ。あー、気持ち悪い目で睨まれた、何がスイングが甘いだよ、たまたまだっつの」
「氷帝コールってなんだよ、寒、あいつのファンって頭おかしいよな」

 ゲラゲラ笑ってる声、跡部をバカにする声、そうやって安心しようとする声。おれは、またか、って思う。跡部はよくこんなふうに陰口を言われてて、おれはそれを聞いちゃうことが多い。聞いてると思われてないのかな。っていうか、よっぽど陰口が多いのかも。跡部ってハデだし、有名人だから。
 ガイジンって言うのは、跡部の目や髪の色を見て言ってんだと思う。くだらない、小学生みたいな悪口で、なんか怒る気にもなれなかった。まあ、口を出す筋合いなんかない。跡部だってそんなことして欲しいと思ってないだろうし。
 跡部はいいやつだっておれは知ってる。それでいいと思う。
 たとえばこんなやつらのことだって、跡部はちゃんとわかってる。名前と対戦成績、テニスの癖や傾向、クラスでの評判や家族構成なんか、いま部室に帰って聞いたらすぐわかるんじゃないだろうか。200人ぶんを全部、すっかり覚えてる。王様なのに。
 どんな細かいことだって、一度聞いたら忘れない。そこにどれだけの努力が込められているか、そんなの、努力してるとこ見なきゃわかんないなんて、ばかみたいじゃん。ああばかなんだ。こいつら。
 あ、やべー。おれ、機嫌悪くなってきたぽい。

「偉そうなツラで、コート占領してよお。自分が一番上手いって思ってんじゃねえの?」
「あいついっぺん故障しねえかな」
「いーなそれ、オレサマのお腕がーって」

 あー、あー、そろそろ部室戻んないと、やばいかも。
 だって、だってこいつらがあんまりばかだから。

 一年目の、あの春の日。跡部はおれたちに向かってはっきり言った、全国に行く、目指すのは優勝だって。跡部は楽しくてしょーがないって顔でみんなを見渡し、指をぱちんと鳴らしていつも自信満々に「勝つのは氷帝だ」って言う。自分が選んだここが好きだって全身で表しながら、生徒会でもいっぱい面白いことを提案し、実現させる。みんなのための環境を揃えた上で、努力するやつ、なにかを成し遂げたやつ、かんばり続けてるやつのこと、跡部は忘れて行ったりしない。負けたやつだって、ちゃんと翌日部活に来たら、きちんと指導してやってる。跡部は自分が王様になることを選んだって思ってて、王様としての仕事ってやつをやってるんだ。
 えらそーなんじゃなくて、えらいんだってなんでわかんないんだろ。
 跡部が一番テニスが上手いって、どうしてわかんないだろ。
 跡部の腕が故障なんてこと、ほんとに起きたら、どうなるか。

「あんなデカイ口叩いといて、関東大会で負けてっし」
「マジ、ウケるよな」

 ごめん、あとべ。
 でもおれ、こいつらをゆるせない。

「……ねえ、あのさあ、トイレいっていい?」
「あ、芥川先輩?」

 あー、ほんと、ごめんなあ。
 あ、きみらじゃないよ、おれが謝ってるのは、跡部だかんね。
 そんな風に心の中だけでお詫びして、おれは右手を振り上げた。



 遅くなっちゃって、でもわかってた、待っててくれるやつがいること。
 部室に戻ったら、明かりがついてて。
 「どこで寝てやがった」なんて言われるかと思いながらオートロックのドアを開けたら、帰ってきたのは無言だった。
 ソファに腰掛けていたのはやっぱり跡部で、他のみんなは帰ったのかな。テーブルには部の名簿とノート、生徒会の資料と書類。跡部は肘掛に肘をついて、足を組んで目を閉じてる。めずらしー。

「ねてる。あとべが」
「寝てねえよ」
「ぎゃっ」
「ギャーじゃねえ。寝てたのはてめーだろ、遅えんだよ」
「跡部、クマすごいC」
「……うるせえ」

 眉間に手をやる、いつものポーズとはちょっと違うのろのろした動作に、おれはムッとした。ので、寝ぼけてる跡部のポケットから携帯をひとつ掴んで、電源を切った。

「てめ、何しやがる!」
「ばーか、あとべのばか、あー、あほ、あほべ!」
「……あーん?」

 ひとつ間を置いて、跡部は首を傾げる。前髪が揺れて、それを鬱陶しげに指で払うと、ちょっと眉を顰めて低い声で言う。

「何を言われた」

 ほら、跡部はこんなにもやさしい。

「なんでもねー」
「そーかよ」

 ああ、あったかいなあ。跡部は、いいなあ。
 おれは跡部のやることがすきで、それはかっこよかったり派手だったりわけわかんなかったりするからってのもあるけど、何より、おれたちが何をやっても基本的にはゆるしてくれるとこがいちばんすきなんだ。

「おい、携帯返せ」
「やだ」
「じゃせめて電源入れろ、そのままだとうちのスタッフがくる」
「なに、それ」
「防犯。早くしろ」

 ひらひらと手のひらで催促されて、さっきオフにしたばっかの携帯を復活させる。すぐに立ち上がった画面には生体認証がどーのこーのって警告が出てた。
 渡すとはあ、とため息。カバンに手を突っ込んだと思ったら、机の上に携帯電話が全部で3つ並べられて、跡部はなんでこっちの言いたいことがわかるんだろー、とあらためてソンケーした。

「これでいいんだろ、おら」
「ねえ、なんであとべは立海とかに行かなかったの」
「あ?」
「別に氷帝じゃなくてもさ。ほら優勝校だし、丸井くんいるし?」
「丸井は関係ねえだろ……。ていうか、くだらないこと聞いてねーで着替えろ」

 あのさあ、イギリスから帰ってきたのも、氷帝に入ったのも、跡部自身じゃどうにもできないものごとのせいなんじゃないかって思うんだ。こんなこと言ったら跡部、怒ると思うから、言わないけど。
 跡部の思い通りにならないことが、オレは悲しい。この世のぜんぶが跡部の望んだままになればいい。
 ときどきほんとにそんなふうに思うこともあって、部の奴らには「今更だろ」と笑われるんだけど、でもさ、跡部はオレのヒーローだから。

「あとべはほんと、かっこいいねぇ」
「バカにしてんのかテメー」

 してないC、と言ったけれど、跡部はぜんぜん信じてくれなかった。





(宍戸亮の場合)





 勝って跡部に繋がなきゃならない。

「俺たちには跡部がいる」

 跡部さんさえ、跡部にさえ。


 ――跡部なら。





 跡部さん、跡部さん、跡部さん。

 更衣室に向かう道すがら、人影もまばらになったあたりで突然仰向けにぶっ倒れた跡部、を、すかさず支えたのはやっぱり樺地だった。いつもの平坦な声じゃない、悲痛な呼び声を聞かない振りをするのに骨が折れた。
 動かすなとか、意識あんのかとか、なんか冷やすものとって来い、いやこれ冷やしていいのかよとか、俺らが大騒ぎしてる間に、樺地は跡部を床に横たえた。長太郎がその横で何かを語りかけている。

「樺地、みんながいるから大丈夫だよ、ね、樺地、だから……」
「跡部さん、あ、跡部さん」

 跡部の指先がぶるぶる震えるのを樺地がどうにかおさえようとしているのがわかって、俺は焦った。

「お、おい、樺地」

 体はいかついが気の優しい後輩が、そんなふうに跡部に触れるのは見たことがない。えらく必死で、あまりにも手荒で、どうかすると壊してしまいそうだった。いつもの跡部なら他人に壊されるなんてことはありえないが、跡部も樺地も今は普通じゃねえ。

「……かっ、ハ」

 掠れた声は一瞬誰のものがわからなかった。跡部の喉が鳴ったのだと気づいた瞬間、樺地は跡部の口をそのでかい手のひらで覆った。

「だめ、です、跡部さん、」

 どこか鬼気迫る口調で、樺地が跡部を諌めている。
 跡部はまだ意識がないようで、ときどきビクッ、と腕が痙攣する以外には何も動きがない。情けねえことに、俺はふたりを見ていることしかできなかった。何をしたらいいのかサッパリわからない。だがこのままジッとしてたって埒があかねえ。

「何見てんだ、テメーら!!見せもんじゃねえ!!」

 気がつくと周囲に他校の連中が群がっていやがったので、苛立ち全開で怒鳴った。
 忍足が榊監督を呼んできて、大会運営に連絡することになった。監督は救護が来るまで安静にするように指示をしたが、震える樺地を跡部から引き剥そうとはしなかった。
 監督が電話しながら事務室に行ったあと、微動だにせず突っ立っていたジローが、急にしゃがみ込んで樺地に尋ねた。

「ねえ、樺地、おれたちどうすればいい」
「跡部さん、を、隠さない、と」
「かくす? あ、そうか。宍戸、更衣室の椅子!」

 ジローに言われて慌ててドアを開ける。中には誰もいなかった。今回の大会で主に使われているのは反対側の更衣室で、こっちは普段からあまり使われていないようで埃臭かった。灯りのスイッチを切り替えると同時に、大切そうに跡部を抱えた樺地が入ってきた。どいつもこいつもひどい顔色。親戚の葬式のときのようすを思い出した。





 似合わねえボロい更衣室のベンチに跡部を寝かせると、樺地がどこからかタオルを持ってきて、顔にそっとかけた。ますます死人じみてると思ったが流石に言わなかった。ら、ジローのやつが言いやがった。

「ゾンビかと思った」

 岳人が食ってかかろうとするのを、忍足が引き止める。その後ろに日吉や長太郎が狼狽えて青ざめているのが見えた。ここに滝がいたら、と一瞬思ったが、いや、意味ねえなと思い直す。だって跡部がこのザマだ。

「ビビった。ぐるんってさ、白目、ひっくりかえってさ。試合終わって、バリカンやって、礼して戻る途中かな、そんくらいから、なんか変だなとは思ったんだけどさあ、むりやり、からだうごかしてるみたいな」

 ぐら、ぐら、ってしてたよな、肩が揺れてた。まっすぐ歩こうとして、樺地はたぶん気づいてた、支えようとして跡部に嫌がられたんでしょ。でもさ、あんな。

「あんな、いときれたみたいに、」

 不自然に息を吸う音が響いた。長太郎だ。

「泣くな長太郎」

 こいつが泣いてねえのに。
 悔しいか、跡部。
 誰よりもお前が悔しいはずだ。負けるのは、痛い。
 俺たちはお前が負けるとこを初めて見た。お前が負けるなんてあり得ないと思ってたんだ。三年間も、ずっと。
 でもそれは、考えないようにしていたわけじゃない。お前を信じてたからだ。いまだってまだ、たぶん、みんな。

「樺地、あとは任せてもいいか」
「……ウス」

 幾分余裕を取り戻したらしい後輩にホッとしつつ、全員に視線を投げるとそれぞれが青ざめたツラで悲痛に頷いた。外に出ていく奴らの背中を見送る。ジローは最後まで名残惜しそうにしていた。

「なー樺地。跡部が思いっきり気持ち悪くなるには、俺たちも、邪魔かな?」
「……たぶん」
「誰ならいいのかなあ」
「誰でも、ダメです」
「そっかあ」

 それでようやくジローも退室する。俺は最後に部屋を出て、しっかりとドアノブを握り、できるだけ静かに扉を閉めた。
 ひょっとしたら跡部はもう目が覚めているのかもしれない。なんとなく、そう思った。





 しばらくして榊監督が戻って来たが、何故か救護の人は伴っていなかった。
 監督はお前たちはここにいなさい、と言い置いて、力強く控え室に入って行く。悔しいくらいに大人だ。
 誰も何も言わなかった。静かに、ごく静かに時間が過ぎる。遠くの方でざわめきが起きては引いて、俺たちは熱気から取り残されたみたいだった。心細いとは言わないが、ただ、悔しい。

 跡部はこんな風になってはいけなかったんだ。
 俺たちが気づいてやれれば。
 俺たちが支えてやれれば。
 俺たちが、負けなければ。

 カタン、と物音。跡部、と低い声。
 ドアの向こうで歯切れの悪い声が聞こえるのを、俺は聞こえないふりをする。多分他の連中も。
 よかった、とジローが呟いた。よかったあ。ほんとによかった。

 ……監督、
 ええ……はい、わかります
 あいつらは
 ミカ、執事に、連絡を
 迎えの車と、父と、母には……
 ありがとう、ございます
 はい、ですが自分は……いえ、わかりました、すぐに、
 ……はい

 何度か咳き込む音。監督が水をすすめた。
 ふいに、跡部がハハハと笑った。監督も笑ったようだった。おい、てめーら、と跡部の声。もう掠れてはいなかった。

「コソコソしてんじゃねーよ」

 いつも以上に憎たらしい声に、俺たちは一目散にドアの向こうに飛び込んだ。

「何だそのツラは、情けねえな」

 跡部は笑った。
 短くなった頭をがしがしと掻いて、黙ったままの俺らに呆れたように肩をすくめる。榊監督はいつの間にやら席を立っていた。

「おまえら、何がやりたい」

 唐突に言う。跡部はたいがい唐突なヤツだ。
 何がって、なんのことだ。俺たちは敗けたし、お前も。もう何もできることなんか。

「俺様は肉が食いてえ」

 ――こいつは何を言ってんだ、と思うのも、もう慣れっこだと思っていた。
 日吉が、肉ですか、と復唱する。お前ひっでえ鼻声になってんぞ。言わねえけど。

「……なんだよそれ」
「焼肉。焼肉が食いたい」

 俺は半年くらい前に跡部を焼肉屋に連れて行ったことを思い出した。肉をてめえで焼くとは挑発的なスタイルだな、という台詞は跡部迷言集のひとつだ。

「夏の終わりは焼肉だろ」

 ドヤ顔で言うなよ、意味不明だし似合ってねえから。
 一拍おいて、ジローや岳人が真っ先に飛びつく。忍足は他校と店被らんとええなあ、とかなんとか妙な心配をして、日吉はどうしたらいいのかわからなくなったのか、ポカンとした顔のまま。長太郎はグシャグシャの顔を跡部に笑われて、ジャージで拭っている。樺地は、ちょっと微笑んだようだった。
 俺はなんだかいろんなことがアホらしくなって、気が抜けて、ずっと言いたかったが何度も飲み込んだ言葉が口をついた。

「お前、バカじゃねえの?」
「よし、宍戸以外は全員俺様のオゴリだ。俺様とともに焼肉についてきな!」
「意味わかんねーし!」
「宍戸宍戸、そんなん今更や、今更」
「ホントですよ、気づくの遅いんじゃないですか」
「日吉、そんなこと言っちゃだめだよ!」
「えー宍戸行かねーの? 肉だぜ肉!」
「腹減ったCー」
「……ウス」

 俺たちが将来おとなになって、昔のことを思い出すとき。
 春の暖かさと慌ただしさを、夏の暑さと躍動を、秋の涼しさと終末を、冬の寒さと待ち遠しさを、それぞれが胸のなかにそっと呼び起こすときに。
 きっとこの男は常にどこかできらめいて、ひとつの目印として、いつまでも立っている。

 跡部は笑っていた。
 だから俺たちも笑っていたんだと、そんなふうに。










TOP

------