マイムジーク





 不二周助は、あまり知られていないが、一年生の時から今までずっとバス通学だ。
 頑張ろうと思えば徒歩でも通える距離なので気候が良ければ歩いて通うことも、姉の裕美子の通勤経路と重なっているため車で送ってもらうこともあるが、基本的にはバスを使う。通り過ぎるバス停はのべ十三個。以前手塚に言ったら渋い顔で(彼はいつもだいたい渋い顔の男だったけど)「そのくらい歩いた方がいいんじゃないか」って言ってたっけ。
 ところで青春学園中等部には、三学年から「ゼロ時限」と呼ばれる朝補修が発生する。強制参加ではないし内容も実践的で、不二にとっては必要のないものとも言えるが、早起きはもう習慣になっているし、授業じたいは嫌いではないのでいまのところ無遅刻無欠席だ。それに加えて今朝は模試の結果に納得がいかないクラスメイトと始業前に分析をする予定だった。
 そんな不二がいつものノンステップ・バスに乗り込んですぐのことだ。彼は定期付きのICカードをセンサーに当てた直後、違和感に気がついた。車内の様子がいつもと違う。いや、歯医者の広告やテレビ局の宣伝みたいに目に見えている部分はそのままなんだけれど、なんというか、春めいている、というのか。いつも乗っている女子高生が小声で何か囁いては背後を気にしているし、買い物にでも行くのだろう女性もちらちらと視線を送っている。なんだろう、芸能人でも乗っているのかな。不二は首を傾げながらステップを登り車内をぐるりと見回してみたが、空席は見つからなかった。しかし、車内の妙な空気には合点がいった。
 跡部だった。
 後ろから三つ目の、二人席に跡部景吾が座っていた。見間違えようのない明るい髪色と氷帝学園の基準服、その傍にいつもの後輩の姿はない。ひとりで窓の外を眺めている横顔は相変わらず華美で、存在感があって、要するに派手すぎて浮いていた。氷帝から跡部の家って、このバス通ってたのかな。跡部の家がどこにあるかも知らないし、すぐには経路が出てこなかったので考えるのは保留する。しかし三年間このバスで氷帝の生徒を見た記憶がない。確か跡部は自家用車で登校していて、遅刻しそうになると戦闘機からダイブするともっぱらの噂だ。次から次に浮かぶ疑問を解消するためにも話しかけるか迷ったが、そうしているうちに後続の乗客に流されて前方に来てしまった。跡部はこちらには気がついていないようだった。
 桃あたりならここで難癖つけるんじゃないかな、などとと思いながら、不二は跡部に注意を向けるのをやめた。だいたい中学生がバスに乗っているのは何もおかしなことじゃない。跡部だって都営バスに乗るのだ。あ、駄目だ、やっぱりおかしいや。

「あの……」

 不二が笑いを堪えていると、後ろのほうで男が小さな声で言った。何事かと思って振り向くと、跡部の席のそばに申し訳なさそうにしたサラリーマンが立っている。

「はい」

 礼儀正しく跡部が答える。ああもう駄目だ、ごめん跡部、既にちょっと面白い。

「座ってもよろしいですか」
「? ……ああ、すみません」

 跡部はやや首を傾げて、すぐに気がついたのか隣に置いていた鞄を膝の上に乗せた。ああ、なるほど、二人がけの席だと気づいてなかったのか。まあ、跡部だしあり得なくもない。
 当たり前のサラリーマンと、学生と、お婆さんと、跡部。ああ、すごく、変。笑いをこらえるので精一杯だ。
 結局跡部は青春台までのバス停では降りることなく、不二に気付きもせずに、そのまま車上のひととして過ぎて行った。



 もしかして「おりる」ボタンの使い方がわからないんじゃ、という懸念もちらと不二の頭をよぎったが、翌朝も跡部が同じバスにいたことで打ち消された。彼は交通機関としてバスを使っている歴とした中学生で、ひとつおかしいところを挙げるとすれば、彼が跡部だってところだけだった。
 その日の彼は英字の文庫本を手に持っていたが、バスの揺れに気がついたのか、不二が降りる頃には読むのをやめてしまっていた。何だか顔色も悪かったようだが、大丈夫だったんだろうか。たぶん跡部の家の車とは比べものにならないほどの揺れだろう。初心者がバスで活字を読むのはオススメできないなあ、と思いながら、何だか自分がものすごい玄人になったようで変な感じだ。なんだかすこしかわいそうな気もしたが、やっぱり全体的には面白い出来事だと思う。学校で英二に話したらひとしきり笑ったあと、「それって、不二が急に甘いもの好きになったーってくらいあり得ない話だし」と真顔で言われた。ちょっと心外だ。



 相変わらず跡部はこちらに気がつかないまま、バスでの通学も三日連続。
 このわずかな距離を保ったまま跡部を見ていると気づくこともある。たとえば、彼は知らないことを恥じない。すれ違った他人に無知をさらすことを、ほんのすこしも躊躇しない。
 基本的には礼儀正しいし、アイドルみたいな顔の跡部に声をかけられて、嫌がるひとなんて滅多にいないってこともわかった。跡部もそれを知り尽くしているからこそ、あの態度なんだろう。初日のサラリーマンとも何故だか親しくなったようで、何かと教えてもらっている様子だった。途中の信号で席を立って、一万円札を両替しようとして止められていたのには笑ったけど。しかもICカードじゃなくて現金なんだ。運賃表の見方とかわかってるのかな。ちなみにそのときも跡部は不二に見向きもせず、キラキラした顔を倍くらい輝かせて颯爽と歩いて行った。
 さすがに三日目ともなれば、跡部も慣れたものだった。途中のバス停でお婆さんに席を譲ろうと立ち上がったさいに、「そんな年寄りじゃありませんよ」とか何とか言われたときは止めに入ろうと思ったけれど、跡部が余裕たっぷりに首を傾げて、「レディ・ファーストですよ、お嬢さん」と微笑んで見せたので、逆に仰け反る羽目になった(多分車内の全員が仰け反っていたと思う)。つくづく思うけれど、跡部って、手塚とは違う方向に吹っ切れた天然だなあ。

 そして四日目の、朝。

「やあ」

 その日はすこしだけ乗客が少なく、跡部もひとりで座っていたので、不二のほうから跡部に声を掛けた。跡部はふん、と鼻を鳴らしただけだった。

「あれ、冷たいな」
「ずっと無視してたヤツの台詞がそれか」
「気づいてたんだ」
「当然だろ」
「……、と、うん、ごめんごめん、タイミングを逃して」

 なあ、樺地。っていうタイミングを待ったせいで、会話に奇妙な空白ができてしまった。怪訝な顔の跡部だったが、立ちっぱなしの不二に視線で座るように促す。腰掛けるとかすかに薔薇の匂いがして、不二は笑った。こんなところまで跡部だ。
 そこから青春台までは、近況報告のような話で終始した。青学にはゼロ時限が存在するが氷帝には無いとか、もうすぐ卒業だとか、このバスを降りた後別のバスに乗り継ぐと氷帝まで行けるとか。

「どうしてそんなわざわざ面倒な方法を?」
「あー、まあ、いろいろあってな」

 珍しく歯切れの悪い跡部に、不二は深追いをするか迷った。バスは相変わらずガタガタとよく揺れていて、跡部はその青い視線を運転席に投げている。別に弱気には見えないのに、何故か所在無いような様子だった。不二の思う跡部の印象からはやや遠い仕草。

「僕はてっきり、君のところの部員に焚き付けられたのかと思ってた」
「それもある」
「アハハ、やっぱり」
「よく笑う奴だな、ったく」

 不機嫌そうに言う跡部がおかしい。本当に今日は朝からよく笑う日だな、と思いながらクスクスと笑みをこぼすと跡部はもう怒る気も失くしたらしく、呆れたように鼻を鳴らした。

「ごめんごめん、でも、跡部はもっと他人に興味がないんだと思ってた」
「そりゃ、テメーだろ」

 事もなげに言うと、彼は前髪をすこし払った。伸びすぎたのか鬱陶しそうに。虚を突かれてマジマジと見返した横顔は他人の顔だ。
 そりゃあ僕は君と比べたらそうかもしれないけど、と言おうと思ったら、跡部がすっと指を伸ばして、降車ボタンを押した。赤紫色のライトが点いてピンポンと間の抜けた音が鳴る。

「跡部、僕は」
「おら、もう停まるぜ」

 本当だ。気がつかないうちに随分話し込んでいたらしい。慌てて立ち上がると左腕を掴むものがある。

「え」

 ぐいと引き寄せられて、跡部の派手な顔が目の前に来る。グラグラ揺れるバスの中、やたら力強い腕の力と、目の前のふたつの瞳の青さに言葉を飲み込んだ。

「せいぜい明日は気をつけるんだな」
「明日?」

 あしたって、なにが。
 不二は首を傾げたが、跡部はにやにやと笑うだけで、しまいには突き飛ばすように送り出された。やっぱり感じ悪い。




 翌朝、不二がバスに乗ると、跡部の姿は無かった。
 降車し、身支度を整えて、バス停から学園に向かう道の二つ目の角を曲がったところで、不二は息を飲んだ。
 そこには目をランランと輝かせた、青春学園中等部の女生徒たち(あるいは高等部の生徒もいたかもしれないが、あまりの量でとても把握しきれなかった)がずらりと並んでいた。

「不二先輩!!!」

 高低様々な黄色い声が不二の耳を劈く。すわ襲撃かと思ったら彼女らはみんな両手に紙袋やそれに類するものを抱えている。ここに至って始めて思い出した、今日この日は二月の十四日。跡部が笑っていたのはこのことだったのだ。そして彼がバスを使っていた理由もおそらくは。
 ああ、確かに今日は、遅刻するかも。





「ハッピー・バレンタイン!」










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