回送列車が行く





 跡部景吾は、少年である。

 彼は美しく、身のこなしも優雅で、秀でた頭脳と抜きん出た頑強さを持ち合わせた、ひとりの少年である。学業の上ではあらゆる科目で最も優秀な成績をおさめ、特に語学に明るい。幼少時からテニスに打ち込み部長として実力、人望ともに兼ね備えた彼の右に出るものはいない。信奉者も多く、今や氷帝学園は彼の王国であった。

「腹減ったあ、腹減ったったら減ったぁ」
「ジロー、てめえ寝てただけだろ」
「いまの聞いたらオレも腹減ったんだけど」
「何やそれ」

 部活も終わり日が暮れて、片付けの指示を出しながら跡部はレギュラー陣の会話にふと意識を向けた。誰がどこにいるか何をしているか、相手を観察するのは得意とするところである。部内の状況把握に関してぬかりはない。

「てめえら無駄口叩いてんじゃねえぞ」
「へーへー」
「ねえねえ、跡部って腹減ったりすんの?」
「は?」
「授業中腹鳴ったりとかさ、しねえの?」
「ねえよ」

 その返事に騒然となった部室は、主に向日と芥川によって、第三十五回跡部サマ庶民生活体験会議の会場となった。
 着替えの片手間で済むような、「とりあえず奢ってくれ」という結論ありきの話し合いだったので比較的スムーズに閉会し、氷帝学園中等部男子硬式テニス部3年の一団(+樺地)は、徒党を組んでいざファミリーレストランへ向かったのであった。





 サイドメニューのハンバーガーにかぶりついた跡部は、しばらく上品に咀嚼をしたあと、オレンジジュースをひとくち啜って言った。

「なんだこれ……」
「あーそっちかー!! そっちのリアクションかー!」
「オラオラ宍戸と滝、からあげ一個よこせよ」
「堪忍なァ、こっちにも一個頼むで」
「ちっくしょー、ゼッテー『まずい』だと思ったのによ……」
「やるねー、みんな」

 『跡部がいままでに食べたことのないものを食べたときのリアクショントトカルチョ』をしていた4人は、わいのわいのと騒ぎながら賭けフードのやりとりをする。それを呆れた顔で見ながら、跡部は口元を紙ナプキンで拭った。芥川はマイペースに自分の皿をつつき、樺地は跡部の隣でじっとしている。

「まずいのは食う前からわかってんだよ。なんだこの肉、なんの肉なんだ」
「知らねーよ、ハンバーグだろ」
「あとべ〜オレのドリアも食う〜?」
「もうグッチャグチャじゃねーか……いらねえ」

 眉に皺を寄せつつも一度出されたものはきっちり食べきるところが育ちの良さだなと宍戸などは内心で感心する。二度と連れてくるな、などの文句を言わないところも。普段彼が口にしている食べ物を考えれば、とうてい食べられる品ではないはずなのだが。
 いっぽうの跡部も、いささか乱雑とはいえ、宍戸がその場にいる全員ぶんのおしぼりを確保する様子や、向日があれこれと話題を広げていく様子、忍足がそれとなくピッチャーに目を走らせる様子、滝がにこやかに注文を取る様子、芥川……はいいとして、それぞれ意外とこいつらも気遣うな、などと認識を新たにしていたりする。跡部は、こういった場がきらいではなかった。
 中間考査の話をすこしばかりしたところで、跡部の3つの携帯のうち1つがブルブルと震えた。国内専用携帯電話で、家からの連絡のみが入るようになっている。とは言っても一般家庭の「帰りに醤油買ってきて」レベルの話ではない。彼がここで5分以内に要件を確認しなければ即時にロックがかかり、他の2種のケータイとリンクして反応が確認されなかった場合、跡部家警備室に連絡が行くという防犯機能付きである。
 届いたメールのタイトルを見て、跡部はすこし驚いた顔をした。短い返信を終えると、彼は部員たちに一言告げる。

「俺は帰る。明日の朝練遅れたらわかってんだろうな、ジロー」
「ぎゃはは、言われてやんの!」
「え〜、名指しかよ〜! てか、跡部帰っちゃうの? 早くね?」
「何だ、用事かい?」
「しゃあないな、お疲れさん」

 思い思いの応えを受け取り、跡部は樺地を伴って店を出た。
 ほとんど時を同じくして、ロールスロイスが滑り込むようにファミレスの狭い駐車場に停まった。運転手が降り、樺地からバッグを受け取る。

「おい、樺地。これで支払っとけ」
「ウス」
「おまえも適当なところで切り上げろよ」
「ウス、……跡部さん、おふたりに……」
「ああ、伝えておく。じゃあな」

 彼はいくらかの現金を樺地に預けて車に乗り込む。音も立てずに滑り出した車内で、跡部はケータイをもう一度開いて、閉じた。
 やがて運転手が言った。

「景吾様、旦那様と奥様はもうお戻りですよ」
「ああ、わかった」

 車窓を眺めながら、跡部は前髪をいじる手を意識的に止めた。彼が今日のように先約がある状態で帰宅時間を早めることは滅多にないことで、だからこそ、今回の行動を非難するものはいなかった。跡部の両親がほとんど家にいないことをそれとなく知っているからだ。
 信号を3つ越えたあたりで、今度は私用のスマートフォンが一度震えて、樺地のアドレスから『ありがとうと伝えてくれと皆さんから、お釣りは明日の昼にお返しします。ありがとうございます』というメールが届いた。返事を送信したところでちょうど車が止まった。





「ただいま帰りました、父さん、母さん」
「ごめんなさいね、お友だちといたんでしょう。明日まではいるのだから、無理に伝えなくてもいいと言ったのだけど」
「俺が会いたかったんです。半年ぶりですね」
「ああ……久しぶりだな、景吾。変わりないか、いや、背が伸びたな。大きくなった、本当に」

 そう言うと父は子を抱きしめ、母はキスを送った。
 跡部は両親の愛を信じていたし、彼らのことを心から愛していたので、些か礼儀を逸するものの長い時間をかけて返礼をした。

「ああ、私の可愛い景吾さん!」

 感極まった母にそう叫ばれて、流石に苦笑いになったものの。
 年に両手で足りるほどしかない、家族三人揃っての夕食で、跡部は些かの感情を交えながら部活や学校、日々の生活についてを語った。普段は彼が座っている上座に、今日は父がいる。そのことがとても誇らしい。

「あらあら、日曜日なのに登校だなんて、景吾さんらしいのね」
「ミカエルも手落ちだが、景吾も油断していたな?」
「お恥ずかしい話です。ですが、月曜の仕事を先に済ませてから帰ったので、結果的には良かったのかもしれません」
「ふふ、あなたのそういう前向きなところ、母さん好きよ。そういえば、コロン使ってくれているのね。嬉しいわ」
「とてもいい香りですよ。母さんの調香にはハズレがない」

 他愛のない話をいくつか交わして、長く、しかし空白を埋めるには短すぎる時間が過ぎてゆく。
 夕食が片付けられたあとのテーブルは、飾り付けがあるとはいえ広すぎるように感じられて、跡部は自分の感傷に些か戸惑った。今日はふたりがいるというのに。

「何故だろうか、景吾が遠くに見えるよ」

 笑みを含んだ父の言葉にハッと顔を上げる。両親は、苦いものを噛み潰すような、それでいてこの世でもっとも美味なものを頬張ったような、なんとも言えない複雑な表情でこちらをじっと見つめていた。

「景吾、ここへ来て、ウィッグを外して見せてくれないか」
「……」
「そんな顔をするな。怒ったりしないよ」

 跡部は静かに笑った。
 両親はプロになれとは言わないが、なるなとも言わない。跡部は賢い子どもなのでわかっていた。彼らは跡部のテニスには興味がない。それをわかっているので跡部は聞かれない限りテニスの話はほとんどしたことがなかった。
 跡部の両親は我が子に嘘をつかない。どんなにやさしい嘘でもだ。それは卑怯なことだから、本当のこと以外は言わない。
 跡部はそんな両親が好きだった。

「ああ、景吾さん、」

 伸びたとはいえ、短くなった髪を母の繊細な指が撫でた。祖母譲りの明るい色。彼女は涙ぐんで、跡部の頬をさする。
 このひとたちの世界では、多少目がいいくらいのことは何の役にも立たない。俺は、このひとたちにとっては、何もできない14の学生にすぎない。
 跡部は、頭が良かった。そして何より心根は素直な少年であった。たいていの物事の道理をすぐに理解し、踏み込むべきところ、そうでないところをうまく判断することができた。彼はかつて弱者であったので。
 跡部景吾の不幸はほとんどが彼が生まれついての強者ではなかったことに起因する。跡部はじぶんが恵まれた立場にいると思っていたが、産まれ持った強さ、精神力、才能、そう言ったものについてはまったく不足していると思っていた。
 彼は大変な時間と労力を犠牲にして美しさを得、身のこなしも身につけ、異常と言える勉強量と運動量を子どもの頃から今まで毎日こなしてきた。ことばの通じない不便さと無様さをよく知っていたから必死に学んだ。始めた頃は一度も勝つことができなかったテニスだったが、彼は努力でハンディキャップを跳ね除けることの価値を知った。努力だけではどうにもならない、才あるものの圧倒的な強さ、敗北の瞬間にあらゆる栄光が失われる、その意味と、恐怖。

「景吾」
「景吾さん」

 うまくいかないこと、自由にならないこと、無価値だと声高に言われること、誰にも顧みられないこと、背負った期待のこと、そして、時間は待ってはくれないこと。
 その年で得るには多い重さを彼は知っていた。そしてこれからもその重みは増え続けるのだと理解していた。そんな中で終わった傷を晒し続けるのは賢いやり方とは言えない。なんと言われようと、何よりも跡部景吾として、ふさわしい立ち居振る舞いをしなければならない。
 跡部の戦場は、コートばかりではないのだ。

「ごめんね、景吾さん。あなたが膝をつくのを、許せない私たちを許してね。あなたは、立派です」
「母さん?」
「本当にお前は、私たちの自慢の子だよ、景吾」
「父さん」
「かなり気が早いけれど、15歳、おめでとう。お前を授かったことこそが、私たちの最大の喜びであり、今に至るまで続く幸福だ」

 跡部はこの日初めて、子どもの顔で笑った。










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