夢ならそれでも





 ベルリンの空港からほど近くのホテルで跡部に礼の電話をかけると、ヤツは大したことじゃねえよといつものように返事した。コート戦の話、部員の話を簡潔に教わって、こちらも無事宿泊先にたどり着いたことを報告する。飛行機もホテルも携帯電話もすべて跡部が用意したもので、彼にとっては大したことではないのかもしれないが、俺にはいくら礼を言っても足りないほどの親切だった。まあ、いささか唐突だったきらいはあるが。

「何かあったらメールしろよ。俺がすぐに対応するのが難しそうな案件なら、ウチの家のものに直接伝えてくれ」
「そこまでしてもらわなくとも、何とかなる」
「何とかねえ。てめえにしちゃ適当なこったな」

 そうだろうか。
 首をひねった俺の言葉にくははと上機嫌に笑う跡部は、そのあといくつかの注意事項を述べ、最後におかしな話をした。

「そうだ、手塚、フェアリーサークルには気をつけろよ」
「フェアリーサークル?」
「ああ。花とか、茸とか、石とかが円状に広がってるような場所だ。あっちに行っちまうと面倒だからよ、あとが」
「おまえ、何の話をしている?」
「日本と違ってそっちは多いし、ややこしいんだよなあ」
「だから跡部、何の……」
「あん? てめえも知らねえのか? なら、まあ、いいか。一応忠告はしたぜ。特に食事には注意しろ」

 わけのわからない跡部の言葉のせいで、俺はその日の夕飯を決めるのに二時間かかった。





 数日後、プロチームの担当者との折衝を終え、スポーツ用品店を物色した帰りしな。
 俺はグリップテープの入ったビニール袋を下げて、まだ慣れない道をひとりで歩いていた。日は高いが人影はまばらで、昔ながらの住宅街といったところか。大きな庭で犬が欠伸をしているのを横目で見る。
 石畳や今にも破けそうなほど薄いビニール袋、基本的に広い庭や、外国車だらけの路肩、日本語がひとつもない看板。そんなものを眺めるでもなく歩いていると、ふっ、と見知った顔が目の前を通り過ぎたような気がして思わず立ち止まった。大柄な男だ。
 樺地、二年、氷帝。
 そんな単語があとからついてきた。俺は驚いて、声をかけようと思った。

「樺地君」

 大柄な体躯が俺の呼びかけを聞かずにするりと路地に入ってゆく。彼はもともと跡部以外の言うことが聞こえているかどうか怪しい時があるのでさほど気にならなかったが、それにしてもなぜドイツにいるのだろう。
 跡部はどこだ。
 彼がいるなら跡部も来ているのか、と思ったが、あんなに目立つ人間が通り過ぎたら誰だってすぐにわかる。ここに跡部はいない。なぜだろう。
 まあ後で電話で聞けばいいことだ。彼も急いでいるようだった。何も追いかけるほどのことでもない。そう思って踵を返そうとしたら樺地君が通った後の道に何かが落ちているのに気がついた。
 しゃがみ込んで手にとってみる。ひんやりと冷たい、それは薔薇の花の形をした細工だった。手のひらに乗るほどの大きさで、花びら一枚一枚を重ねて作られているらしく、精巧でよくできていた。硝子にしてはずいぶん冷えている。気温は低いわけでもないのに。
 跡部のものだろうか。樺地君はこれを届けるためにあんなに急いでいたのだろうか。派手な男の顔がちらりと浮かんで、俺は意を決した。
 樺地君の後を追うと、彼の大きな背中が、どこかのお宅の垣根の隙間の穴を通り抜けて行くのが見えた。慌てて呼びかけながら追いかけるが、彼は聞こえていないのか、すぅ……っと垣根の向こうに消えてゆく。
 どう見てもここは正門ではないし、こんなところから入ったら家主が驚くのではないか。
 そんなふうに思わないでもなかったが、短い間でも試合を通じて樺地君が不当なことをするような人間ではないということはわかっていた。何か事情があるのだろう。
 とにかく落し物を渡すだけなのだから、と俺は彼の通って行った垣根に入り込んだ。




 垣根を越えるとそこは薔薇園だった。
 辺り一面に広がる薔薇の香り。こうやってみるとこの硝子細工はほんとうによくできているのだな、と思う。本物そっくりだ。
 樺地君の姿はない。それどころか、いくらあたりを見回しても人っ子一人見当たらないので、俺は何か建物がないか探してみることにした。つたないドイツ語能力や今の自分の身分を考えるとリスクの大きな行動だというのはよくわかっているが、この硝子の薔薇はきっと大切なものなのだろうから。
 いっそ声をあげようか決めあぐねているうちに、キィ、と背後から金属の軋む音が聞こえた。振り返ると、すぐそこに車椅子の男がいた。
 というか車椅子を押しているのは樺地君で、座っているのは跡部だった。
 そうとわかるのが遅れたのは、その跡部がどうにも地味だったからだ。ついまじまじと見つめてしまったが、どこか違和感はあれども確かに跡部だ。よくよく派手な登場の仕方を好む男だと思っていたが、認識を改める機会かもしれない。
 その地味な跡部は青白い顔をして、弱い声でどなた、と誰何した。
 それが俺に向けてのセリフだとしばらく気づけずにいると、車椅子を押していた樺地君が跡部に何事かを耳打ちした。跡部はよしなさい、と普段より丁寧に命令して、英語で何か言った。あまりに早口でうまく聞き取れなかったが、セキュリティーがどうのこうのという話だということは単語でわかる。

「失礼。僕は跡部景吾と申します。あなたは日本人ですね? 僕たちもそうです。日本語、すこしできます。どちらからいらしたのか、こちらの樺地、僕の友人です、彼が聞きたがっています」

 下手な日本語が彼の口から飛び出す。痩せすぎの体格は普段の彼の半分ほどにしか見えない。あいつはあれで筋肉量がある選手だ。

「……跡部?」
「はい。あなたのお名前はなんと仰るのですか?差し支えなければ教えてください」

 青い目が瞬いた。記憶のなかよりすこしだけ弱く。




 跡部(?)の話を聞いて俺は、自分がおかしな世界に来てしまったことに気がついた。あるいは白昼夢か。どちらでもいいが。
 ここは跡部家の別荘で、彼らは普段はイギリスにいること、所用で何週間かドイツに滞在しているだけなのであまり使用人もいないこと、だから不法侵入したことは誰にもばれていないことを、丁寧で不恰好な日本語で教えてくれたのはやはり跡部なのだったが、しかし、これは跡部ではない。

 だいたい俺の知っている跡部は東京に住んでいるし、日本語ができるし、たぶん今ごろテニスをしている。

 請われるままに喋ったが、いまいちピンとこない。跡部はごめんなさい日本語あまりうまくないです、と言った。そういうことではないんだが、確かにそうだ。

「跡部さん、時間です」

 樺地君が急に喋るので驚いた。跡部もすこし驚いたようだった。彼はすみません、後は樺地に任せます、戻ってくるまでいてくれたら嬉しいですと言って、自分で器用に車椅子を動かした。
 その姿を見送っていると、隣に立った樺地君が俺をじっと見ているのに気づいた。会話を促されている。
 だが何を話せばいいんだ、初対面の知人と。

「……跡部(俺は心の中で'をつけた)は足が悪いのか?」

 とりあえず気になったことを口にすると、樺地君は俯いた。

「跡部さんは、生まれつき体が弱くて。体力をつけるために、乗馬を」
「テニスではなく」
「テニス、も。乗馬の次の週に、近くのクラブに行こうと」

 その答えに気持ち安堵しながら、俺は続けて聞いた。

「では、なぜ?」
「コーチがほんのすこし、目を離したときに……馬が何か物音に驚いて、暴れ出した、と跡部さんは言っていました。おれは、そのときいなかったので……」
「……」
「そのときに背骨を痛めて、跡部さんはうまく歩くことができなくなりました」

 なるほど、背骨か。我ながら間抜けな相槌を打つ。おもむろにどうぞ、と樺地君が菓子を差し出したが、頭の中の混乱を収めるのに必死でそれどころではなかった。彼はすぐに皿を引込めた。

 ――歩くことができない、日本にいない、テニスをしていない跡部。

 たぶんドイツに来たのは医者にかかるためなのだろう。樺地君は言葉を濁したが、何となくわかってしまった。よくできたドラマでも見ているような気分だ。

「樺地君は日本に行ったことは?」
「小さいころ、すこしだけ」
「そうか。テニスは……」
「……いえ、一度も」

 そう、だろうな。跡部がテニスをしないなら。この世界にはふたりのテニスプレイヤーがいないのだ。それは惜しいことだと思った。
 跡部の祖父は日本にいるそうだがあまり会うことはないとか、両親は世界中を忙しく飛び回っているとか、ふだんあまり他人に会うことがないので跡部が喜んでいるとか、樺地君は驚くほど多弁に色々なことを喋ってくれた。こんなに彼と話したのは初めてだ。これが夢にしろ幻にしろ悪いことではない。

「手塚、さん、は、何故ここに?」

 そう問われて、ハッと思い出した。左手に握りしめていた硝子の薔薇のことを。未だひんやりと存在を示し続ける、おそらくこの非現実への鍵だ。

「これを、渡さなければと」
「……?」
「樺地君を追いかけてきたんだ。道に落としたようだったから。違うのか?」

 樺地君は不思議そうに首を傾げた。

「……おれ、今日はずっと跡部さんといました」
「……何だって?」

 そんな馬鹿な。
 唖然としていると、キイキイと車椅子の音とともに、跡部が戻ってきた。樺地君が自然なしぐさで彼の後ろに回って、しっかりとブレーキをかける。

「お待たせしました。まだいてくれてよかった」
「跡部、これに見覚えはないか。おそらく樺地君のものなんだが」

 俺は跡部に硝子の薔薇を見せる。跡部は瞬いて、何のことだろう、と言った。

「よくわからないな」
「そんなはずは……さっき、外で彼が」
「樺地はずっとここにいました。おもてには出ていない。見間違えでは?」
「いや、俺は本当にこれを届けに来たんだ」

 跡部が笑った。

「おかしな話だ。僕には何も見えない」

 そうだ、何もかもおかしなことばかりだ、跡部。
 彼らにはこの薔薇が見えないのだ。彼らにとって幻なのはこちら側。ざわざわと葉擦れの音、生温い風が吹く。

 おまえは帰れ。

 そう言われた気がした。





 その日の夜、俺は跡部に電話をかけた。ことの顛末をどう説明したものかわからずにいると跡部はやっぱりなぁ気をつけろと言ったじゃねーか手塚よ、といつもの調子だった。俺に常識がないのはわかっているつもりだったが、跡部も大概だと思った。

「忠告の意味は何と無くわかったが、あれはどういうものなんだ」
「いや、俺もよく知らねえんだけどよ。確かに昔俺もそっちの世界に行ったんだ、そこでなにか難しいことをクリアして、その証に褒美をもらった、ような気がする」
「お前にしては、いい加減な話だな」
「なんせキンダーガーデンにいたころの話だから覚えてねえよ。樺地に聞いてもわからねえし」

 跡部はやや不機嫌な声音でそんなようなことを言った。
 樺地が言うんだよ。

「どうも、あんまり思い出さねえほうがいいんだと」

 何が何だかわかんねえよな。思い出さないほうがいいことなんて、そんなに無いと思うんだがなあ。

「……俺はよく覚えているが」
「そーかよ。聞かねーぞ俺は、てめえの土産話なんぞは」

 語尾が粗雑な割りにのんびりした声音がひどく懐かしい。やはりこいつはこうでなくては落ち着かない。

「……そういえば、跡部。おまえ、薔薇の硝子細工を持っているか?」
「あん?なんだって?」

 手のひらに乗っている薔薇はまだ冷たい。これが跡部の言う褒美だとしたら、まあ、悪くない。だが何に対する褒賞なのだろう?

「硝子でできた精巧な作り物だ。樺地君が……」
「なんで知ってんだ?」

 跡部は遮るように被せてきた。
 そうだ、樺地が昨日寄越したんだ、見事なもんだぜ、花弁が一枚一枚重ねられていて、それでいてつなぎ目が見当たらない、どうやって作ったんだか氷みてーに冷たくてよ、いまベッドサイドに置いてるんだが、ランプの光が射すとまるで違う印象になる、まるで生き物みたいにだ、さすが樺地だぜ、あいつは昔からこういうのが得意で何かあるとどこからともなく……。
 ギョッとして二の句が告げない俺にかまわず跡部は矢継ぎ早に褒め言葉を並べ立てている。いや今俺の手元に同じものがあるから説明されなくてもわかる、と言おうとしたら、

 ぱりん

 と、薔薇が粉々に砕け散った。
 ホテルのカーペットに破片が吸い込まれていくのを見ているしかできなかった。手のひらの上に残った欠片は、瞬きした間にスッと空気に溶けて消えてしまった。
 おそらく本来の持ち主のところに行ったのだ。よくわからないが、あの薔薇はやはり俺のためのものではなく、紆余曲折あってきちんと正しい受取人のところにたどり着いたようだ。
 ――ああ、樺地君もたまにはうっかりするのだな、と俺は思った。

「……で、この薔薇がどうしたって?つかなんで手塚が知ってるんだよ」
「……いや、もういい。わかった」
「何がだよ!」

 俺は電話を切った。今日はもう疲れた。
 ああ、テニスがしたい。
 普段は当たり前すぎてあえて意識しないようなことを、俺は強く願った。










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