沙漠の海





 どこからともなくぽきり、とかけそいおとがした。

 何かの聞き間違いのようにも思えるほどちいさな音に、ぼくは意識を引っぱられる。
 ゆるやかに視覚がはたらきはじめ、ぼくの前に世界があらわれる。ぼくは目覚めている、あるいは夢を見ている。どちらにせよ世界がひらかれはじめたのに変わりはない。
 最初に見えたのは黄色い空だった。質量のある雲におおわれているそれをぼくは寝転がって仰向けに見上げているらしい。憂鬱、不満、未達成。厚い雲はそんな言葉を吐きかけているようだ。大昔に流行った、夢からいまの自分の精神状態を診断する方法を思い出しながら、ぼくは二度瞬きをする。
 指の先端がなにかにくすぐられて、それでようやく気がついたのだけれど、ぼくはどうやら広い水面に横になっているようだ。皮膚に水の感触がある。こんなことにどうしていまさら気がついたのか不思議だ。遠くのほうから水滴が落ちた音が聞こえた。さきほどの細い枝でも折れたような弱い音はどこからしたのだろう。
 水はさざ波も立てずにぼくをひたひたと濡らしているばかりで、いったいここがプールなのか池なのか湖なのか海なのか知れない。水面に浮かんでいるわけでもなく、背中に硬くしっかりとした“地面”のようなものの存在を感じる。だけれどぼくは自分の髪が、衣服が、肌が濡れていくのも確かに感じている。
 どうやら水平線がずっと向こうまでつづいているようだから、仮にこの水を海だとしよう。なま暖かくねっとりと絡みつくような粘り気すら感じる海水は、鈍くぼくの動きを阻んでいる。服はぐっしょりと濡れていて、指先ひとつ動かすのも億劫だ。まとわりついてくる海はぼくの皮膚、毛穴からぼくのなかに入って来ようとしているような気がする。
 夢という活動のなかで身体性の失われた肉体は、すなわち精神だ。ぼくの外側は湿る、というよりもっと明らかに濡れている。そしてそのためにぼくは動くことができない。空は黄色く曇り、音はなく、風もない。そしてぼくの内側はひどく乾いていた。
 もしかしたらずっとこのままかもしれない。でもぼくにとってそれは不幸ではないだろう。だとしたら――だとしても、このままでもかまわないのではないか。
 かさかさに乾ききったぼくの内面は、まとわりつく海すらを拒んでいる。ひょっとしたら血潮すら流れていないかも知れないな、と思う。土くれの肉体のなかで思索する意識のみが存在し、時間と空間はこの世界の外側にあって観測できない。

 ぽきん。

 またあの音だ。弱々しいくせぼくの頭の奥のほうをくすぐって、目覚めるように追い立ててくるかのような。
 ふと気がつくと今度は彼女がぼくの腹のうえにまたがる形で座っていた。

「ひさしぶりね」

 確かに聞いた覚えのある声に、ぼくはため息をどうにかこらえる。ぼくの夢なのだからこの彼女はぼくが作りだした幻であり、同時にぼくの心のなかに深く根付いたものだ。生々しく呼吸する記憶がかたちをとって夢にあらわれただけ。
 こころとからだは、行動することを是としない。

「あいたかった」

 何も着ていない、白くやわらかな肉はあたたかい。
 彼女はぼくの体を欲している。くちびるからあふれる吐息に欲情の陰があった。肉欲ではなく、支配欲のためにけものじみた熱狂をひとみに宿している。
 ぼくらはきっとたがいに性を感じていなかった。すくなくともぼくは彼女に女性は求めなかった。たったいま覆いかぶさられ、くちびるをあわせられても、まったくの無感動なのが我ながらおかしいくらいだ。

「すきよ」

 彼女はぼくの顔の横に手をおいて上体を支えながら、ぼくの顔をのぞきこんでは猫のように目を細める。海は相変わらずさざ波もなくまとわりついていた。
 彼女のことは、たぶんこの世でいちばん憎んで、憎んで、ついには殺してしまったくらいに憎かった。同じくらいにいまも憎んでいるのに、肉を食むけだものや餌を欲しがる子どものような必死さと強さでのしかかる彼女は、不思議と美しいもののように見えた。執着心で肥え太った豚のようにあわれで、淋しさで着飾った老女のようにかなしい。
 赤い髪も金のひとみも焼けるようで、触れたら火傷をするだろう。ぼくは彼女に欲されていること、つまるところの彼女個人の人格なんかには興味がまったくなく、むしろうとましく思う。だから手をのばしたりはしない、好きこのんで皮膚を焼くほど好事家になったつもりはない。
 彼女は愛してると歌いながら、ぼくの肉を食べる。ぼくはその醜く歪んだ顔を見ながら、てきとうな相槌を打っては彼女のこころを何度でも殺すのだ。
 ひたりと空気さえ通ることを許されないほど密着した肌はおたがい似たようななめらかさと幼さで、しかし彼女は炎そのもののように熱い、ぼくは土のように冷えている。彼女はぼくをその熱をはらんだ裂け目から腹にいれて同じにさせようと躍起だが、その間抜けた顔を見ていると頭の芯からどんどん冴えてゆくだけだ。生ぬるい海と、熱い彼女の肉。夜の沙漠のように静まりかえったぼくのこころ。
 憐憫は彼女にとって刺されるよりよっぽど残酷だろうと思うからこそ、ぼくの持ちうる良心を総動員してぼくは彼女をかわいそうだと思うことにしたのだ。億劫さと退屈ささえ忘れてしまえば簡単な話だった。

 あいしてるわ、と彼女が歌う。

 ぼくはそれをただ、かわいそうに、と思う。

 彼女はぼくの魂と肉を傷つける。

 ぼくはそれをただ、かわいそうに、と思う。

 したいようにするがいい、ぼくはきみに何もしない、何も与えず、何ごとも許さない。
 ぼくはきみが憎いから憐れむ。
 猿みたいなひとりの女は、やっきになってぼくを食いちぎろうとするだろう。滑稽だが、ぼくはただ彼女をあわれだと、そう思うだけだ。










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