バロールの眼





 デイダラはうちはイタチを嫌っていた。本能的に、彼の生き様に根付いた美を愛する心がイタチを疎ましく思った。瞼の裏に焼きついた、陽を背負ったあの紅が、デイダラを惑わせる。
 だから、イタチのことは嫌いだ。



 脆さというものからかけはなれた男だと思っていた。阿吽像を従え修羅の道をゆくような、――ああ、どうかしている。あんなものは、認められない。認めたくない。

 うちはイタチのそれは明確に、形として残るはずのものではない。
 ひとの手を寄せ付けぬ、うつろって止まぬ命の輝きそのものである。脆弱にも強くしなやかでうつくしいものである。散りゆく花とまったく同じに、ただいっときのうつくしさをもつあの男の瞳はまさしく生命の発露であり芸術であった。

 ただそこに零細にも人知を介入しない点を除けば、だ。

 緋というには暗すぎて赤と言うには深すぎる。あの目は血の色だ。ゆえにあれがうつくしいことにひとの思惟は関係がない。造形を整えられ構成されたものではないのだ。そんなものをはたして美と認めてよいものだろうか。
 芸術には、技なるものという意味合いが強くうかがえる。木や土、紙、石、はたまた布地に技巧を凝らしてかたどるものが芸の術だ。己が領域で求めた美を、対象を変容せしめ、つくりだすものこそが美だ。
 すなわちイタチのあれは、道端に転がる石と同等に無価値でなければならない。なぜならイタチは何もしないからだ。彼が瞬くことが画家が絵筆を取ることや彫刻師が鉋を振ることと同じだとは思えない。そこには一切の追求がない。手わざをまじえず、血の力によって輝いている。そんなものは芸術ではない。

 生命の奔流はいずれ衰えるからこそうつくしい。確固とした信念に従えば、わずかな視線の動きや表面を潤す水分の濃度、さしこむ光の加減というごくささやかな誘因でさまざまに色を変えるあの紅蓮が、いつの日か輝きを失うことを思えば総毛立つ。その事実こそがいらだちの原因である。
 同時に、うつろうものであるはずの、儚く弱いはずのそれが、ときおりどんなものよりも――そう、何かと類比しえないほど、禍々しく強いものに思えるのだ。これはいらだちというよりは不安を煽った。
 イタチは動き、言葉は少ないにしろ喋る歴とした人間である。生き物だ。だというのになぜ永を感じるのか、それがわからない。
 眼窩という額にはめられた一枚の画。常しえに切り取られた美景。最低だ。悪趣味すぎて吐き気がする。

 しかし、もし仮にあれが永遠不動のものであるとしたら。
 あれをほんの一瞬でもうつくしいと思った、その事実すら惑乱を呼ぶのだ。

 ――だからうちはは嫌いだ。










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 イタチさんの仁王立ちシーンを書いた岸本先生は微妙に頭がおかしいと思いました。