つめたい肌色





 病室の半分開いたドアを足早にくぐると、もう幾ばくとは生きられまいと思われる老婆と、そのかたわらに腰を下ろした青年が視界に入る。
 乾いて皺が深く刻まれた指を、白く柔らかな手がすがりつくように握りしめる。いつ来てもこの病室には彼の姿があった。感情の伺えない横顔は見舞い客の中でもひときわ年若い。ヤマトはその姿を痛々しいと思う。
 しんと静まり返った部屋は、彼の妻、つまり病床の主の好きな色、好きな花、好きな模様、好きな小物、ありとあらゆる「彼女の好きなもの」で埋め尽くされている。落ち着いた鳶色の毛布や、使い古されたマグカップ(揃いでふたつある)、小さな花をつける植木、そのどれもが想いが詰まっていて触れることすらためらわれた。
 病ではないのだから悲しむことなどないのだと、ふたりとも口を揃えて微笑む。「時間の問題」だ、不可逆でどうにもならない事が訪れたのだと言うだけで、かえって周囲をなだめたりもする。
 だけれどヤマトは知っている。
 この部屋には時計をはじめとする、時間や日付を記すものが何一つ無いのだ。ここには「今日」があり「今」があるだけで、それ以上の物差しは存在しない。
 来るべき時を誰よりもおそれているのはたぶん彼らなのだ。
 ヤマトはロックが身じろぎもせずにミラの手を握っているのを、ただじっと黙って見ていた。





『愛してるよ、ミラ』

 また明日、と言うことができなくなったのはいつからだろう。
 ミラのかすかな返答を大切に拾い上げ、『力』の接続を切り離す。ミラには『力』を使わせていない(し、おそらくもう使うこともないだろう)から、こちらから働きかけない限りテレパシーはできない。それにいくらミラの力に依らないとはいえ、あまり長く接続しすぎると彼女の精神にも負担がかかる。
 もうろくな筋力もない手をさする。ひび割れのように深い皺が流れた時を雄弁に語っていた。頑なに外したがらなかった左手の薬指、なんということはないただの指輪に口づける。
 呼吸音が聞こえる。まだ眠ってはいないが、体力の限界だったのかもしれない。今日も無理をさせてしまっただろうか。握り返すこともない痩せた手。
 感傷と自己嫌悪に浸っている暇はなさそうだった。だいぶ前から入り口あたりでじっと待っている客人がいる。

「来てくれてありがとう、ヤマト」
「いや」

 そちらを見ずに言うと、もごもごと口ごもる。Σセクションにおいて相応のポストを手にしたはずなのに、彼はいつまで経っても不器用で素直なままだ。

「ミラは今休んでいるから、話はできないけど……」
「用事は見舞いだけじゃないんだ」

 切り出す決意を込めたような強い語調に、彼を見上げた。貫禄が出てきた顔はかつての皇帝によく似ている。

「ロック、あんたに話がある」

 焦っている様子は伝わっていたからさほど驚かない。だがどこか思い詰めた目が気になった。

「すぐに済む話かな」
「いや。おそらく、長くなる」
「そう。なら、場所を変えても?」

 重々しく頷いたヤマトに、励ますように笑った。ミラの手を一度強く握ると、ちょっと行ってくるよ、と口で言う。意識もなく聞こえはしないとわかっていて。





 珍しく混乱したような、彼の強いテレパシーにすこしだけ笑おうとして、でも、表情が動かなかった。
 目も霞んでいる。ロックが支えてくれてようやく体を起こせた。それだって彼が痛覚を麻痺させていてくれるからで、謝られる筋合いなんてないのに。

『違うんだ、ミラ、ぼくは』

 後悔? 悲しみ? どうして?

『きみをまだ苦しめる。ぼくの、ぼくのせいだ』

 やめなさい、ロック。あなたのせいじゃないわ。あなただけのためでもないの。
 わたしの幸せがここにあるのよ。
 彼はこの指に頬をよせて微笑む、ほんとうにかすかに、そよかぜよりもよわく頬の筋肉をうごかし、全身のわだかまりをやわらかくほどいて、まるでよくなついた猫のように、彼は幸福を体現する。しかしひとつおくと、星が落ちる速さでなにかにおびえるようにすぐに笑みを消してしまう。
 し、と彼の歯のすきまから息がこぼれ、一転してはらわたを貫かれでもしたかのようにぐしゃぐしゃに顔をゆがめた。なにをきいても答えてくれない。
 彼のさきほどまでの歓喜、ああ、なんてはかないよろこびだったろう。
 甘いよろこびと、凍えるかなしみはかれにとっていっしょくたにやってくる、切りはなせないのだ、ふたつ重なって愛し合うように添いあってしまって、混ざり合って、ふたつは永遠にいっしょだ。
 許して、と彼は言う。
 ともにいることを、ともにいてくれるように望むことを、こうなるとわかっていてきみを選んだばかなぼくを。
 彼はわたしの鼻さきに口づける。またたく軽さと静かさで、彼はわたしを幸福にし、不幸にする。
 そして透明なあおい目がふしぎにかがやき、表情がかわるのをみてわたしはおそろしくなってその体にすがりつくのだ。うすっぺらい骨ばかりの体で、心もとない熱に必死に擦り寄って手放すまいとする、そんな無意味な真似はほかにないと知っていて。
 白い肌も黄緑いろの髪も空よりあおい瞳もなにもかもとおくに、くらやみに溶けていって二度と帰ってこない、そんな気がした。ずっと同じ橋をわたってゆこうって約束をしたのに。
 今まで何度もいかないで、と泣きながら言った。どうかわたしの手の届くところにいて。どこにもいかないで。ずっとここにいて。もう、いかないで。
 彼はしばらく黙っていたけれどそのうちわたしの背中を撫でながら、言うのだ。

『すまない』

 わたしは明日にも死ぬ人間。
 何度言ってもうそがつけない。素直で、頑固で、さみしがりで、かわいそうで、いとしいひと。
 ねえ、ロック。

『……うん』

 ふたりだけで、暮らしましょう。
 どこかの星で、あなたとわたしで。他の誰も知らないところで。
 わたしはあなたの思い出のなかだけに生きるの。
 わたしの言葉に、彼はどうやら笑ったらしかった。

「とても素敵だ」

 そんなふうに聞こえた気がするのは、たぶん間違いじゃない。










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