赤の夜





 嫌われたんだ、いっさいに。

 ぼくは彼女と、埃のはいる隙間もないほど密に、たがいを確かめあうように抱きあっていた。
 真夜中の緞帳が重く落ち、身じろぎすらきざわりなような、暗く塗れてよく冷える夜だった。暗いところは好かない、生命のない静けさもおそろしい。こんな 夜はきらいだ。やさしい夜は別だけれど。
 今夜は暗闇と静けさにいやなことばかり思い出す。
 彼女の音、呼吸の音、心臓の音、何もかもを聞き漏らすことがないように、彼女のからだ、仕草、何もかもを見落とすことがないように、ぼくは息をひそめな がら彼女にしがみついて、彼女の心臓に耳を押しつける。無意識下の意志をたどって、彼女の血流、細胞、思考を探り、彼女の安堵、不安、諦念、優しさ、それ らをひとつひとつ追っていって、そうまでしてからようやくほっとする――彼女はここにいる。
 習慣や求愛からの行動と言うよりは、性癖に近いのかもしれない。
 ときに気味がわるいと思われる、ふつうはそうだろう、ほとんど暴力に近い行為だと自覚している。不快感を覚えないほうが不思議だ。彼女の私的生活、その 神経、中核、たとえ誰であれ踏みこまれるべきではない部分にまで手を伸ばしているのだから。
 言い訳をするならば、ぼくは彼女の過去を知りたくてそうしているのではない。
 手にいれたくてそうするのじゃない。
 証拠に彼女のこころの流れは、一度つかんだあとはすぐに手放してしまう。見ることすらない。靄を撫でるように、おぼろげながら感じるだけで。
 望めば彼女が過去何を思い、何を思わされたかもわかってしまうだろうけれど、そんなことを知りたいのじゃない。彼女がここにこうしている証拠が欲しいの だ。
 彼女が生き、流動し変化しながら、いまもぼくの前にいてぼくを好いていてくれるということを、精神ではなく肉体にもっと鮮烈に刻みつけておかなければな らない。でなければ焦燥に焼かれてしまいそうになる。時間はないのに何もかも足りない。なぜなら、ぼくは馬鹿で欲深く、とても、きたない。
 愛される価値を見つけられないでいるから、どうして、の答えを求める。不毛だと知ってもぼくは知りたいのだった。これはただの欲で、果たしても何にもな らないのだと、夜の向こうから誰かが言ってくる。
 彼女はぼくの頬を指でつうと撫でる、小さな子どもにするように慰める動きだ、それだけでぼくは胸が詰まってしまう。

「……ごめん」

 またやってしまった。
 暴くだけ暴いてから言う台詞でもないし、たぶんやめようと思ってやめられるようなものでもないのだけれど。
 そして彼女はいつものように何も言わない。
 返答がないと知っていて詫びるのは、これほど近づいておいて手放すことはぼくにはできそうにないから。背中に回した手で彼女のか弱い背骨をたどる。狭い 背中にぽこり、ぽこり、と頼りなく浮いたそれを、ぼくはひとつひとつ数えるように撫でていく。彼女はそれを気にもせず、むしろおなじことをぼくに試みたり もする。どうやらぼくのほうがはっきり浮き出ているらしい。小言を言うたび皮膚から伝わる配慮の心のあたたかみ。

「最近痩せたわね」
「ん……そうかな」
「医者の不養生。ドクター、あなたに休暇を命じます!」
「……それは艦長命令かな?」
「妻からの命令よ」

 と、まっすぐにこちらの目を見てくる。……なんて威風堂々たる奥様だ。
 ぼくはようやく笑うつもりになって、顔をあげた。彼女は一番最初からずうっと微笑んでいる。血の流れた、暖かい、やわらかい微笑みに何度助けられただろ うか。
 とくり、と、こめかみに力が入る。
 皮膚に一瞬緊張があらわになった。心の動揺が外側に簡単に漏れだしてしまうのはぼくが弱っている証拠だ。頬にどう力を入れたらうまく笑えるかどうかを見 失う、何回も何百回も何万回も笑っているのに、ときどきぼくは自分のからだの舵を取り落とす。ひとつになってしまいそうなほど近くで寄り添っている、彼女 を他者、異物だと意識することだけが、いまのぼくを導いてくれる。彼女の皮膚とぼくの皮膚とがぼくらをひとりひとりに隔てる。それがとてもうれしい。
 頬の筋肉に力をいれ、口元を引き締めて、笑う真似をしてみる。

「……それ、笑ってるつもりなのね?」
「……うん、まあ」

 手厳しい。引きつっているらしい頬を撫でられ、お腹が空いて餌を待ってる犬みたい、とずいぶんひどい評をつけられた。犬? そうよ、犬。それも学習しな い犬。行儀も悪いし、待てもできないし。

「あ、傷ついた?」
「さすがにちょっと」
「まあダメな犬ほどかわいいって昔から言うでしょ。言わないかしら」
「結局犬なのは変わらないんだな……」

 ――いっそ犬のように単純だったらよかったのに。
 そう、ただ犬のように誰かのもとに駆けれたら、卑しく何かに首を差し出していられたらと。
 手を延ばしたさきに誰がいるのか、何があるのかもわからないまま、すがりつきたいような気持ちが起こる事がたまにある。
 ただわびしさをごまかすためだけにそこにあるものにしがみついて泣き喚く、赤ん坊のようだ。寒くてさみしくてしようがなくて、相手のことなぞ考えもせず に。違うのは、それが間違いだとわかっているという点だけ。
 怖気が走る。
 ぼくには情すら必要ないのかと、ぞっとする。ほとんどけだもののように生きていたいのかと。そしてその自問はたぶん正しい。ぼくは愛情や恋情や友情や同 情や、そういうものの区別が付いていない。付けないままでいる。そうしておいたほうが心地がいいから、知らないふりができるからだ。好きだと思うことはす べて一緒くたにしてしまえばいい。楽なんだ。そのほうがずっと。
 楽?
 うそ、だ。

「だめ。だめよ、あなた」
「え、」
「血が出てるわ」

 彼女の手、細い、かよわい指が、ぼくの口唇を拭う。
 どうやら気がつかないうちに唇を噛みきってしまったらしい。まいった。駄目だ。本当に駄目だ今夜は。何故だろう。彼女を困らせるつもりはないんだ、本当 に。
 どうしたの、何かあったの、なんて彼女は聞かない。だめ、と止めるだけだ。それがぼくにはうれしい、救われるようにすら思う。
 ぼくの血を拭った彼女の指を見る。どこかで潮の音がする、いやこれは彼女の血が流れる音だ。命が立てている音だ。同じ色が同じ音が同じものがぼくだ。

「ごめん」

 生きるために産まれたんだと確信する色。
 自傷行為に似ているけれど、すこし違う。ぼくはまだ生きている、まだ諦めなくていい。彼女は流れている、血は生きている。あそしてぼくと彼女は同じも の。

「嫌な顔してる」
「……ごめん」
「また謝る。嫌ねあなたって」

 けだものだって生きているのだ。足を滑らせて断崖から転げ落ちても、その血が熱く流れるかぎり、まだ。
 腕を絡めて意識を分かち、ぼくは彼女を大切に思う。おそらくは彼女もきっと、そうだといい。そうであってくれればいい。たったいまこのとき、愛していて くれればいい。
 だって、血はこれほどまで赤い。
 近づきすぎることが怖いのは離れてしまうから、またひとりになるのが悲しいから。でもぼくはそれでもいいと思った。彼女とともにある幸福が、いずれ彼女 のいない不幸になろうとも、ぼくは彼女を抱きしめて、彼女に抱きしめられたいと思った。それは嘘じゃない。嘘じゃないんだ。

「あなたはやっぱり、笑っているほうがすてきよ」

 そう妻は微笑んで、子どもにするようにぼくの手をさすり、おやすみのキスをする。










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